伝記
郭威(かく い、904年9月10日-954年2月22日)は、五代の後周を建てた初代皇帝である。廟号は太祖。首に雀の形の刺青があったことから「郭雀児」とあだ名されたという。951年から954年に没するまで在位し、その間の元号は広順であった。
邢州堯山県(現在の河北省邢台市隆堯県)の出身で、父は郭簡、母は王氏である。生まれたころの中国は、唐が衰えて各地の軍閥が争う時代であった。父は晋王李克用に仕えて順州の刺史となり、幼い郭威を連れて太原へ移ったが、まもなく順州を攻略した劉仁恭の軍に殺された。母の王氏もその後に亡くなり、孤児となった郭威は養母の韓氏に育てられた。父の死は郭威が3歳のころのことで、家門はこれによって没落したとされる。成長すると、農耕より戦に関心を持つたくましい青年になり、酒と博打を好み、喧嘩にもよく加わった。妻の柴氏はそうした行いをたびたび戒めたという。17歳ごろ、捕らえられるのを避けて潞州に近い壺関の知人のもとに身を寄せ、のちに潞州の李継韜の軍に加わった。酔って市場の乱暴な肉屋を刺し殺した際にも、李継韜は勇敢な兵を集めることを優先して罪を問わず、のちに呼び戻したという。
923年に李存勗が後唐を建てて後梁を滅ぼし、李継韜が殺されると、旧部下の郭威は騎兵の番に編入された。読み書きと計算ができたため、まもなく将校になった。兵法の書を読み漁り、義兄弟の李瓊が勧めた書物を好み、わからない箇所は李瓊に教えを請うたという。927年、後唐の明宗李嗣源が朱守殷の反乱の鎮圧に自ら出陣した際、石敬瑭の配下にいた郭威は、浚県の城壁を最初によじ登った兵の一人であった。石敬瑭は郭威の文才を見て軍の記録を任せた。郭威は将軍や大臣の間で人気を集めたという。後唐は936年に後晋に取って代わられた。
その後、一兵卒から立身した郭威は劉知遠に才能を見出されて重臣となり、劉知遠が後漢を建てる際には大功を挙げて枢密副使にまで昇進した。948年に劉知遠が没して劉承祐(隠帝)が即位すると、枢密使に昇進した。契丹を撃退するなど軍功が多く、人望も集めたため、劉承祐に恐れられるようになり、一族を皆殺しにされたうえ、自身も命を狙われた。そこで郭威は軍とともに反乱を起こして劉承祐を殺し、劉知遠の甥にあたる劉贇を皇帝に立てたが、まもなく殺して自ら皇帝に即位し、951年の正月に後周を建てた。
即位後の郭威は、農村の復興、節度使の統制、軍事力の強化など内政に力を注いだという。その治世は安定し、大多数を占める農民の負担を軽くするための改革も行われた。その統治は精力的で、よく整えられていたとされる。北中国で漢民族の人物が皇帝となるのは、923年以降では郭威が初めてであった。しかし即位から3年後の954年、病のため没した。後漢は沙陀人の政権で、劉知遠は後に高祖と諡された。郭威は19歳のころから沙陀人の支配のもとで暮らしていたため、その気風には通じていたという。家族の多くは後漢の朝廷に殺されていた。妻の一人である貴妃の張氏、息子の郭青哥と郭意哥、娘の楽安公主はいずれも後漢で処刑されたとされる。一方、娘の寿安公主は張永徳に嫁いだ。妻には最初の正妻の聖穆皇后柴氏のほか、淑妃楊氏、徳妃董氏らがいた。こうした事情から、郭威とともに行動して難を逃れた義理の甥で、妻柴氏の兄柴守礼の子である柴栄(世宗)が後継者となった。
同じ年に亡くなった人物
- ルイ4世 (西フランク王) (954年没)
- アブル=アイシュ・アフマド (954年没)
- マルカム1世 (スコットランド王) (954年)
- ヌーフ1世 (954年)
- エイリーク1世 (ノルウェー王) (954年没)