伝記
ルイ4世は、西フランク王国(カロリング朝)の国王で、在位は936年から954年である。シャルル3世(単純王)と、イングランド王エドワード(長兄王)の娘エドギフの間に生まれた唯一の息子で、渡海王(ドートレメル)と呼ばれる。生年は920年または921年、ランとランスの間の地とされ、ランで生まれたとする記述もある。カール大帝とアルフレッド大王の両方の血を引いていた。父は最初の結婚で6人の娘をもうけており、ルイには6人の異母姉がいた。
923年、父シャルル3世がソワソンの戦いに敗れて拘束・廃位されると、当時3歳ほどのルイは母とともに海を越えてイングランドへ逃れた。母の父エドワード王、その死後は母の兄アゼルスタン王の宮廷で、10代になるまで育てられた。「渡海王」の渾名はこれに由来する。この間、母方の祖先で、ヴァイキングと勇敢に戦ったイースト・アングリア王エドマンドの物語を好んだという。929年に父が捕らわれの身のまま没すると、ルイは西フランクのカロリング家の継承者となった。
936年、ロベール家の王ラウールが没すると、有力者のユーグ大公(のちのユーグ・カペーの父)が使節をウェセックスに送り、王国を継ぐよう求めた。アゼルスタンは使節に、家臣の臣従を得られるよう誓わせたうえで帰国を許した。ルイは母や司教らとともに海を渡り、ブローニュの浜辺でユーグらの臣従を受けたという。年代記作者リシェは、ユーグが王家の飾りをつけた馬を引いてきた際、暴れる馬にあぶみなしで飛び乗ってなだめ、一同に認められた、との逸話を伝える。戴冠は936年6月19日、ランスの大司教アルトーの手で、おそらくランで行われた。ユーグが自ら王位に就かなかったのは、ブルゴーニュ公ユーグやヴェルマンドワ伯エルベール2世という競争相手が多く、また父ロベールが王位を望んで早く亡くなったことを覚えていたからだと、リシェは説明している。
しかしルイの統治権は、ランの街と北フランスのいくつかの場所に限られ、有力者ユーグの後見から自由になろうとして、絶えず対立した。939年にロタリンギアの征服を試みたが失敗し、同年、東フランク王オットー1世の妹ゲルベルガと結婚した。ゲルベルガは同年に前夫のロートリンゲン大公ギゼルベルトと死別していた。ロートリンゲン大公位はオットーの弟ハインリヒに与えられた。940年にはオットーの軍がランスを包囲した。945年にノルマンディー公ギヨーム・ロングソードが没すると、その領地を奪おうとしたが、ノルマン人に捕らえられてユーグに引き渡された。
948年のインゲルハイムの教会会議でユーグの破門が認められ、ルイは長い後見から解放された。950年以降は、ヴェルマンドワ伯らと同盟を結び、東フランク王国の庇護のもとで北東部に王権を及ぼしていった。954年9月10日、ランスで落馬の事故により没し、サン=レミ聖堂に葬られた。妻ゲルベルガとの間にはロテール、マティルド、シャルルらの子女があった。娘マティルドは950年ごろブルグント王コンラートと結婚し、末子のシャルルは下ロレーヌ公となった。王位は長男のロテールが継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- マルカム1世 (スコットランド王) (954年)
- ヌーフ1世 (954年)
- エイリーク1世 (ノルウェー王) (954年没)
- アルベリーコ2世 (954年没)
- 郭威 (954年没)
同じ地域に関係する人物
- レミギウス (533年没)
- フィリップ6世 (フランス王) (1350年没)
- ニコラ・ド・グリニー (1703年没)
- ジャン・ヤンヌ (2003年没)
- テオドリック1世 (451年没)