HISTORICAL PERSON · 231年没

曹真

曹操・曹丕・曹叡の三代に仕えた魏の宗室の重鎮。曹叡の代に大将軍として諸葛亮の北伐を迎え撃ち、陳倉の守りを固めさせて撤退に追い込んだ。大司馬となり蜀へ攻め入ったが長雨で失敗し、翌年に死去した。

生涯
231年没
死亡地
中華人民共和国(河南省 / 洛陽市)
出生地
—
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

曹真(そう しん)は、中国三国時代の魏の武将で、字は子丹。231年5月(太和5年3月)に没した。曹操の一族で、曹操・曹丕・曹叡の三代に仕え、魏の建国後は宗室の筆頭格の一人として重んじられた。曹叡の代には蜀漢の北伐から領土を守った。

190年、父の曹邵は曹操の挙兵に一族として呼応したが、董卓方の黄琬と悶着を起こして殺された。曹操は幼くして父を失った曹真を憐れみ、引き取って他の子と同じように養い、曹丕と起居を共にさせた。あるとき猟の最中に虎に追われると、馬上から後ろ向きに矢を放って一撃で倒した。曹操はその勇敢さを褒め、族兄弟の曹休とともに親衛部隊「虎豹騎」の指揮官とした。霊丘の賊を討って霊寿亭侯に封じられ、曹操が漢中で劉備と争うと、偏将軍として曹洪に従い下弁で呉蘭らを破り、中堅将軍となった。夏侯淵が戦死すると征蜀護軍に任じられ、徐晃らを率いて陽安で劉備軍の高翔を破った。

220年に曹丕が禅譲を受けて即位すると、鎮西将軍・都督雍涼州諸軍事となり、東郷侯に封じられた。酒泉の張進の反乱には費曜を送って鎮圧させ、安定の盧水胡や東羌も討伐し、雍州・涼州の反乱を繰り返し鎮めた。222年には洛陽に戻って上軍大将軍・都督中外諸軍事となったが、雍州・涼州の軍事も引き続き指揮した。同年から翌年にかけて曹丕が呉に三方向から侵攻すると、夏侯尚らとともに朱然の守る江陵を攻め、別働隊で中州の孫盛の砦を落とし、諸葛瑾の水軍を焼いて援軍を防いだ。しかし朱然は土山や地下道などの攻めをよく防ぎ、半年に及んだ包囲は223年3月の撤退に終わった。226年に曹丕が没する際には、曹休・陳羣・司馬懿とともに曹叡の補佐を託され、曹叡が即位すると大将軍・邵陵侯となった。

228年、諸葛亮の蜀軍が祁山を包囲し、南安・天水・安定の三郡が一時蜀に降った。曹真は命を受けて郿に布陣し、長安をうかがう趙雲・鄧芝の軍に大軍を送って破った。街亭で張郃が馬謖を破ると蜀軍は退き、月支城に籠もった楊条は、曹真が自ら出陣すると降伏した。曹真は諸葛亮が次は陳倉を狙うと予測して郝昭らに守りを固めさせ、同年冬にその予測は的中した。郝昭がわずかな兵で守り抜き、兵糧が尽きた諸葛亮は撤退した。230年に大司馬となり、帯剣しての昇殿などを許された。蜀の征伐を説いて認められ、同年8月に長安を発って子午谷から攻め入ったが、秋の長雨が30日続いて桟道が一部崩れ、失敗して撤退を命じられた。帰還後まもなく重病となり、曹叡の見舞いも甲斐なく、翌年3月に没した。

死の直前、早世した同族の曹遵や同郷の朱讃の子のために、自分の食邑を分けてほしいと上奏し、二人は関内侯に封じられた。恩賞の足りない者には私財も与え、将兵の人望は厚く、軍の団結も強固だったという。肥満を呉質に酒宴でからかわれて激怒した逸話があり、のちに曹洪が曹丕の不興を買って逮捕されると、これを弁護した。姉妹は夏侯尚の夫人で、夏侯玄は甥にあたる。また『烈女伝』で知られる夏侯令女の夫、曹文叔も甥である。曹叡は寛容で謙虚だったとして元侯と諡した。跡を継いだ曹爽は高平陵の変で失脚して三族皆殺しとなったが、のちに従孫の曹熈が家を継ぐことを許された。清の道光年間に西安郊外で業績を称える石碑が発掘され、魏代の隷書として書道史上の価値も高い。『三国志演義』では司馬懿の引き立て役となり、諸葛亮に連敗した末に憤死する。

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