伝記
劉少奇は、1898年11月24日に湖南省の寧郷県で生まれた中華人民共和国の政治家である。生地は毛沢東の故郷の韶山から20キロメートルほどで、「同郷」といってよい近さであった。1913年に長沙の中学に入り、1920年に湖南省の社会主義青年団に入団した。1921年にソ連へ入国し、モスクワの東方勤労者共産大学で学ぶ一方、同年に中国共産党に入党した。1922年にコミンテルンが主催した極東諸民族大会に参加し、帰国後は江西省の安源炭鉱のストライキを李立三らとともに指揮して成功させた。その後も主に労働運動で活躍し、1927年に党の中央委員に選ばれた。
第一次国共合作の崩壊後は、国民党支配地域で地下活動に従事し、1934年10月から長征に参加して、遵義会議では毛沢東を支持した。1936年に党の北方局書記となり、華北の抗日運動を指導した。1941年の皖南事変後には、壊滅状態となった新四軍の政治委員となり、軍の再建と根拠地の拡大に努めた。この間に書いた『共産党員の修養を論ず』は主著として広く党内で読まれた。1943年に延安へ戻って党中央書記処の書記となり、1945年の第7回党大会では党規約の改正について報告し、「毛沢東思想」という言葉を初めて公式の文書に使った。大会後、党内序列は第2位となった。毛沢東が重慶で蔣介石と会談する際には、延安で党主席の代理を務めた。建国直前の1949年7月には、ソ連を訪れ、スターリンと会談した。
建国後は、中央人民政府副主席などを歴任し、1956年の第8回党大会では政治報告を担当した。1958年からの大躍進政策が失敗すると、1959年に毛沢東に代わって国家主席に就任した。同年の廬山会議では、大躍進を批判した彭徳懐が毛に非難されて解任されるが、劉もこの決議に同意した。しかし後に故郷を視察して、その疲弊ぶりに衝撃を受けたという。1962年の七千人大会では、大飢饉は天災が三分、人災が七分だったと、党中央の責任を認めた。その後は鄧小平とともに市場主義を取り入れた経済調整を実施して、経済の回復に努めた。党中央に強い基盤を持つ劉は、毛沢東にとって厄介な存在であった。
大躍進の失敗で影響力を失いつつあった毛沢東は、文化大革命を発動して権力の奪回を図り、劉と鄧小平は「資本主義の道を歩む実権派」の中心とされた。1966年8月の会議で、毛が「司令部を砲撃せよ」と題する論文を配布し、劉の序列は第2位から第8位に下げられた。翌1967年には党の内外から公然と批判を受け、1月に毛に会って、すべての役職を辞任して農業をして暮らしたいと伝えたが、毛は明確な返答を示さなかった。紅衛兵が自宅に乱入して劉と家族に暴行を加えたとき、劉は憲法を手にして「私はこの憲法に書いてある国家主席だ」と叫んだが、逃れられなかった。7月には批判大会で暴行を受け、夫人と別の部屋に隔離された。スパイ行為などの罪状がでっち上げられ、1968年10月の会議で、永久に党から除名されて、すべての職務を解かれた。
自宅に監禁されて病の床に就き、常用していた薬も取り上げられた。1969年10月17日に河南省開封へ移送され、暖房もない倉庫部屋に幽閉された。治療は限られたものにとどまり、病状は悪化して、11月12日に70歳で死去した。遺体は「劇症伝染病患者」として火葬され、遺骨の保管証には「劉衛黄」の名が記された。死は長く秘匿されていた。毛沢東の死後の1980年2月、除名処分が取り消され、名誉回復を果たした。同年5月の追悼大会後、遺言に従って、遺骨は中国海軍の艦艇から海に散骨された。
同じ年に亡くなった人物
- コンスタンティン・イオン・パルホン (1969年没)
- シルベストレ・イゴア (1969年没)
- イツァーク・シュテルン (1969年没)
- セシル・パウエル (1969年没)
- ジョヴァンニ・マルティネッリ (1969年没)