伝記
クラテロスは、紀元前370年頃に生まれ、紀元前321年に没したマケドニア王国の将軍である。アレクサンドロス3世(大王)に仕え、父の名もアレクサンドロスといい、兄弟には艦隊を指揮したアンポテロスがいた。出身はオレスティス地方とされ、大王より十五歳ほど年長だったともいわれる。東征の初めには、方陣歩兵の一隊を率いる指揮官であったとされる。
東征が始まると、グラニコス川、イッソス、ガウガメラといった主要な会戦で重装歩兵部隊を指揮した。紀元前332年のテュロス包囲戦ではプニュタゴラスとともに艦隊を率いている。ヒュルカニアでタプリア人を、ソグディアナでカタネスとアウスタネスを相手に戦うなど、しばしば別働隊を任され、王の信頼が厚い将軍の一人だった。フィロタスの裁判では彼に重い嫌疑をかけ、疑いが陰謀の広がりに及ぶと考えて拷問に賛成したとされる。パルメニオンの死後は東征軍の副将格となった。ヒュダスペス川の戦いでは対岸の別働隊を指揮し、帰路では王が沿岸を進んだのに対し、別働隊を率いて内陸経由でカルマニアへ向かい、そこで合流した。紀元前324年のスサの集団結婚式では、ダレイオス3世の弟オクシュアトレスの娘アマストリネを妻に迎えた。
その後、ポリュペルコンとともに退役兵1万1500人を本国へ連れ帰る任に就いた。アンティパトロスの摂政の地位を継ぐことも約束されていたが、その途上でアレクサンドロスがバビロンで病死した。バビロン会議では、レオンナトス、ペルディッカス、アンティパトロスとともに、ロクサネの生まれる前の子の後見人となり、本国の諸事と防衛を委ねられた。翌紀元前322年にラミア戦争が起こると、ラミアに籠城したアンティパトロスの求めに応じ、キリキアから軍を率いて向かった。先着したレオンナトスは戦死したが、クラテロスは軍をアンティパトロス軍と合わせてクランノンの戦いでギリシア連合軍を破った。アンティパトロスは謝礼として名誉と贈り物を与え、娘フィラを嫁がせた。アマストリネとの間には子がないまま、のちに離縁したともいわれる。
紀元前321年、摂政ペルディッカスを警戒したクラテロスは、アンティパトロスらと同盟を結んだ。ペルディッカスがエジプトのプトレマイオスへ遠征に出ると、小アジアに渡り、そこの防衛を任されていたエウメネスを討とうとした。ペルディッカス側のネオプトレモスはエウメネスを裏切ろうとして敗れ、クラテロスのもとに逃れてきた。両軍は小アジア北西部のヘレスポントス近郊で戦った。エウメネスは、クラテロスの名望のために自軍が寝返ることを恐れ、正面に彼の顔を知らない外国人の兵を置き、敵に語る暇を与えず突撃せよと命じた。クラテロスは帽子を取って名乗ったが、落馬して馬に踏まれ、誰にも気づかれないまま死んだ。エウメネスは盛大な葬儀を営み、遺骨はマケドニアの妻子のもとへ送られたという。
クラテロスは大王の親しい友であり、有能で信頼できる家臣だった。ヘファイスティオンが「アレクサンドロスの友」と呼ばれたのに対し、クラテロスは「王の友」と呼ばれた。王の不興を恐れずマケドニアの習俗を守る立場をとり、ペルシア風を取り入れる王に反対したため、マケドニア人の将兵から厚い人望と尊敬を集めた。このためクラテロスを倒したエウメネスは、真っ先に敵意と反感を買うことになったとされる。
なお、クラテロスは後に自分を討つことになるエウメネスとも、かねてから親しく付き合っていたと伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- ネオプトレモス (ディアドコイ) (紀元前321年没)
- ヒュペレイデス (紀元前321)
- 顕王 (紀元前321年没)
- Ariarathes I of Cappadocia (紀元前321)
- ペラのアルコン (紀元前321年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘンリー・モーズリー (物理学者) (1915年没)
- アナクサゴラス (紀元前420年代没)
- ランプサコスのアナクシメネス (紀元前319)
- メトロドロス (紀元前276)
- 白のクレイトス (紀元前318年没)