伝記
白のクレイトスは、マケドニア王アレクサンドロス3世に仕えた将で、のちのディアドコイ(後継者たち)の一人である。紀元前318年に没した。同名の「黒のクレイトス」と区別するため、アレクサンドロスによって「白」とあだ名されたとも、アテナイオスがそう呼んだともいう。家系は不明である。
東方遠征では、紀元前327年のインド遠征で歩兵部隊の指揮官として現れる。クレイトス、ゴルギアス、メレアグロスの各部隊が、ペルディッカスやヘパイスティオンとともにインダス川まで進んだ。ヒュダスペス河畔の戦いでは、王とともに川を渡ったとされる。戦いの後まもなく騎兵隊長に昇進し、サンガラの戦役やマッロイ人との戦いにも加わった。紀元前323年にいったん除隊し、クラテロスやポリュペルコンらとともに退役兵を率いてマケドニアへ帰ろうとしたが、一行がキリキアに着いたころの同年6月、アレクサンドロスが死去した。クラテロスは、フェニキアとキュプロスの船で艦隊を整え、ヘレスポントスの航路を守る仕事を彼に任せたらしい。
ギリシアに渡ったクレイトスは、ラミア戦争でマケドニア艦隊を指揮して反乱軍と戦った。紀元前322年の夏、おそらくアモルゴス島付近で、アテナイの提督エエティオンの艦隊の一部を大海戦で破った。その後ヘレスポントスの艦隊を加え、エキナデス諸島またはリカデス諸島の近くで、予備に残されていたアテナイ艦隊をも破り、これがアテナイの海軍力の終わりを画した。この勝利ののち、彼はポセイドンに自らをなぞらえ、三叉の矛を持ったとされる。アテナイオスは、その華美を嘲って、紫の衣をまとって政務を執ったと伝える。アテナイオスとアエリアヌスは、彼の派手さと贅沢を記録している。
ペルディッカスがエジプト遠征を行った際には、背後の憂いをなくすため小アジアに味方を配置したが、クレイトスはその艦隊の指揮権を与えられた。ペルディッカス派に属し、その弟アルケタスとも協力していたが、やがてアンティパトロスとクラテロスの側に寝返った。紀元前321年にペルディッカスがエジプトで部下に暗殺されると、トリパラディソスの軍会で地位と属領の再配分が行われ、ペルディッカス派の多くが死を宣告された。そのなかでクレイトスは保身に成功し、リュディア太守の地位を得た。アンティパトロスは、アンティゴノスの野心を抑えるため、その領地フリュギアに接する土地を経験豊かな将軍に任せようとしたらしい。
アンティパトロスの死後、カッサンドロスとポリュペルコンが後継者の座を争うと、クレイトスはポリュペルコンを支持した。紀元前319年、カッサンドロス派と結んだアンティゴノスが領地を奪おうと進撃すると、主要都市に守備隊を置き、事態を報告するためマケドニアへ出港した。このとき、フォキスで捕らえられたフォキオンらアテナイの指導者を、処刑のためアテナイへ連行したともされる。翌318年、ポリュペルコンは、アンティゴノスの軍がヨーロッパへ渡るのを妨げ、ヘレスポントス・フリュギア太守アリダイオスと合流させるため、彼を艦隊とともにトラキア沿岸へ送った。クレイトスはビュザンティオン近郊でニカノルの艦隊と戦って圧勝した。しかしこの勝利に慢心し、兵に上陸と野営を許した。そこをアンティゴノスとニカノルに奇襲され、彼の乗る一隻を除いて艦船をすべて失った。無事に岸に着き、マケドニアへ向かったが、途中、夏にトラキアのケルソネソスで、リュシマコスの兵に捕らえられて殺された。
同じ年に亡くなった人物
同じ地域に関係する人物
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- クラテロス (紀元前321年没)
- セレウコス1世 (紀元前281年没)