伝記
ネオプトレモスは、紀元前321年に没したマケドニア王国の武将で、アレクサンドロス3世に仕え、ディアドコイ(後継者)の一人に数えられる。生年は伝わらない。アッリアノスによれば、エピロス王家と同じアイアキデス家の家系に属する人物で、おそらくエピロス王家と縁続きだったと考えられている。
アレクサンドロスのもとではヘタイロイ(王の側近の騎兵)に属し、近衛騎兵隊にいたともいわれる。紀元前332年のガザ包囲戦では、城壁を最初に乗り越えた一人として名を挙げた。その後の東征での働きはあまり記録に残らないが、勇敢な兵士という評判を得たらしい。プルタルコスによれば、王の盾と槍を持つ側近の役にあったとも伝わる。
紀元前323年の王の死後、アルメニアの太守に任じられたとされる。ただし公式な地位が太守であったか将軍にとどまったかは明らかでなく、アルメニアでは混乱を招くばかりで、反乱も起こされた。プルタルコスは、その性格を「気まぐれで、虚栄心が強い」と評している。落ち着きのない人物という評判のため、摂政ペルディッカスは疑いの目を向けていた。
紀元前321年、ペルディッカスがプトレマイオスを討つためエジプトへ遠征すると、ネオプトレモスは小アジアに置かれ、エウメネスの指揮下に入れられた。エウメネスには、とくに彼を警戒するよう命じられていた。ところが、ネオプトレモスはすぐに、ペルディッカスと対立するアンティパトロスとクラテロスに連絡を取り始め、エウメネスのもとへ援軍として向かうよう求められても拒んだ。王に書記官として仕えたエウメネスを、自分は剣で仕えたがあの男はペンで仕えたと嘲ったと伝えられ、その下に付けられたことが裏切りの一因だったかもしれないとされる。裏切りを知ったエウメネスは直ちに進軍してネオプトレモスを破り、その兵士たちに忠誠を誓わせた。ネオプトレモスは三百騎ほどの少数の騎兵とともに逃れ、クラテロスの軍に合流した。そしてエウメネスが勝利に浸っているうちに攻めるよう、クラテロスを説得したとされる。
両軍はヘレスポントス近郊で戦った。ネオプトレモスは左翼の騎兵を、エウメネスは右翼の騎兵を率いた。二人は個人的な敵同士でもあり、互いの姿を見つけるや一騎討ちとなった。激しい戦いの末、ネオプトレモスはエウメネスに討ち取られた。会戦はエウメネスの勝利に終わり、クラテロスも戦死した。
同じ年に亡くなった人物
- 顕王 (紀元前321年没)
- ヒュペレイデス (紀元前321)
- ペラのアルコン (紀元前321年没)
- Ariarathes I of Cappadocia (紀元前321)
- クラテロス (紀元前321年没)
同じ地域に関係する人物
- メトロドロス (紀元前276)
- クラテロス (紀元前321年没)
- ランプサコスのアナクシメネス (紀元前319)
- Eupolis (紀元前410)
- Charon of Lampsacus (紀元前500)