伝記
ヘンリー・グウィン・ジェフリーズ・モーズリーは、1887年11月23日にドーセット州ウェイマスで生まれたイギリスの物理学者である。友人たちからはハリーと呼ばれた。父ヘンリー・ノティッジ・モーズリーは、オックスフォード大学の解剖学・生理学の教授で、チャレンジャー号探検航海に参加した生物学者として知られ、モーズリーがまだ幼いころ、1891年に亡くなった。母アマベル・グウィン・ジェフリーズは、ウェールズの生物学者の娘で、1913年にはイギリスのチェスの女子チャンピオンにもなった。プレパラトリー・スクールのころから優秀な生徒で、奨学金を得てイートン・カレッジに進み、1906年には、同校で化学と物理学の賞を受賞した。同じ1906年にオクスフォード大学のトリニティ・カレッジに入学し、1910年に学士の学位を取得して卒業した。
卒業するとすぐに、マンチェスター大学の物理学の助手に就任し、アーネスト・ラザフォードのもとで研究した。マンチェスター大学での最初の1年は教育の負担があったが、その後は教育の任務を外れて、研究助手として働いた。1912年にはベータ粒子のエネルギーを使った実験で、ラジウムの放射線源から高い電圧が得られることを示し、最初の原子力電池を発明したが、粒子を止めるのに必要な電圧は得られなかった。1913年、特性X線の波長の逆数の平方根が、原子核の電荷(原子番号)と直線関係にあることを発見した。これが「モーズリーの法則」である。結晶による回折の方法で、さまざまな元素のX線スペクトルを観察し、測定したもので、ブラッグの回折の法則を用いてX線の波長を求めた、X線分光法の先駆的な利用でもあった。
それまで周期表は原子量の順に並べられていたが、同位体の存在比率によって、コバルトとニッケル、テルルとヨウ素などでは、原子量の順で決まる位置と、化学的性質からの位置とが一致しなくなることがあった。モーズリーの実験は、コバルトとニッケルが、27と28という異なる原子番号を持つことを物理学から直接に示した。この発見によって、元素の原子核の陽子数を測定することが可能になり、原子番号の物理的意味が明確になった。原子番号は、化学者の直感に基づく恣意的な数ではなく、X線スペクトルの物理に根ざした実験的な基盤を持つことが分かった。さらに、原子番号の43番と61番などに空白があることを示し、後にこれは人工元素のテクネチウムとプロメチウムで埋められることになった。ラザフォードからのフェロー職の打診を断り、オクスフォード大学に戻って研究を続けるため、マンチェスター大学を辞職した。オクスフォードでは、実験室の設備は与えられたが、支援は得られなかった。
第一次世界大戦が始まると、家族や友人たちの反対を押し切って、イギリス軍の工兵隊に志願し、1915年4月にトルコのガリポリに侵攻した部隊で、通信担当の技術士官となった。1915年8月10日、ガリポリの戦いで、命令を電話連絡している最中に、オスマン帝国の狙撃兵に頭部を撃ち抜かれて戦死した。27歳だった。早すぎる死がなければ、1916年のノーベル物理学賞を受賞していただろうとも言われる。この戦死を受けて、イギリスなどの政府は、自国の科学者が戦闘に従事することを禁じるようになったと言われている。
同じ年に亡くなった人物
- アナトーリイ・ステッセリ (1915年没)
- フリードリヒ・レフラー (1915年没)
- ジョー・ヒル (1915年没)
- ダニロ・イリッチ (1915年没)
- チャールズ・フローマン (1915年没)
同じ地域に関係する人物
- アナクサゴラス (紀元前420年代没)
- セレウコス1世 (紀元前281年没)
- Eupolis (紀元前410)
- ネオプトレモス (ディアドコイ) (紀元前321年没)
- Charon of Lampsacus (紀元前500)