HISTORICAL PERSON · 220年没

呂蒙

孫策・孫権に仕えた武将。若くして無学だったが孫権に諭されて学問に励み「呉下の阿蒙に非ず」と評されるほど成長し、赤壁の戦いなどで戦功を挙げた。

生涯
220年没
死亡地
中華人民共和国(湖北省 / 公安県)
出生地
中華人民共和国(阜南県)
出典
世界地図
中華人民共和国(湖北省)

伝記

呂蒙は、中国後漢末期の武将である。字は子明、豫州汝南郡富陂県の人で、孫策・孫権に仕えた。初平3年(192年)、15歳のとき、孫策の部将として山越討伐に従事していた姉の夫の鄧当の軍に、こっそりついて行った。鄧当に気づかれて叱られても家に戻ろうとせず、鄧当から知らされた母は激怒したが、呂蒙は貧しさから抜け出すには危険を冒して功績を立てるしかないと反論した。母はその心を哀れみ、それ以上何も言わなかった。のちに鄧当に仕える若い役人に馬鹿にされて怒り、その役人を斬り殺して逃亡したが、校尉の袁雄を頼って自首した。この話を聞いた孫策は呂蒙に面会し、非凡さを見抜いて側近に取り立てた。鄧当の死後は、張昭の推薦で別部司馬に任じられ、その軍を率いた。

孫策が死んで孫権が跡を継ぐと、軍団の統廃合が考えられるようになった。呂蒙は兵士に赤い服を着せて閲兵式に臨み、よく訓練された軍団を孫権に喜ばれて、兵を増やされたという。丹陽討伐で功を挙げ、広徳県令となった。黄祖との戦いでは先鋒を務め、敵の水軍都督の陳就を自ら討ち取り、横野中郎将に任じられた。建安13年(208年)の赤壁の戦いでは周瑜や程普とともに曹操を破った。南郡で曹仁を包囲した際には、夷陵で甘寧が曹仁軍に攻められると、呂蒙は救援を進言し、逃げる敵から馬を奪うため道に伏兵を置くことも提案した。周瑜はこれを入れ、呂蒙は馬300匹を得て、曹仁を南郡から撤退させた。荊州を平定すると偏将軍・尋陽県令に任命された。

呂蒙は無学であったといわれる。孫権から教養の大切さを諭され、『孫子』『六韜』『左伝』『国語』や三史を読むよう勧められて勉強を始め、儒学者に勝るほどの学問を身につけたという。周瑜の後任として陸口に赴く途中の魯粛は、呂蒙に質問してすらすらと答えられ、関羽への対策として五つの策も授けられた。魯粛が「呉下の阿蒙に非ず」と評すると、呂蒙は「士別れて三日すれば、即ち更に刮目して相待すべし」と答えた。ここから、進歩のない人を「呉下の阿蒙」と呼ぶようになった。

その後も戦功は続いた。建安17年(212年)には濡須塢の築造を進言し、翌年に曹操が40余万の軍で攻めてきたときも、これが功を奏して曹操を退けた。214年には皖の土地が肥沃で曹操の屯田が脅威になると上陳し、甘寧を先鋒、自らは精鋭を率い、太鼓を打ち鳴らして兵を励まし、朝のうちに城を落とした。朱光らを捕らえ、廬江太守に任じられた。劉備が荊州の諸郡の返還に応じないと、215年に魯粛らとともに荊州を攻め、長沙・桂陽を降伏させ、零陵太守の郝普も計略で降した。のちに孫権と劉備は湘水を境界とした。同年の合肥の戦いでは、撤退する孫権を守って凌統らとともに殿を務めた。216年から217年の濡須口の戦いでも曹操軍を撃退し、虎威将軍・左護軍に昇進した。

魯粛の死後、呂蒙はその後任となり、兵1万余を配下に収めて陸口に駐屯した。関羽は驕慢で、両国の友好は長くは続かないと見て、南郡を先に攻めるよう孫権に進言し、受け入れられた。建安24年(219年)、関羽が樊城を攻めて呉への備えを怠ると、呂蒙は病と偽って建業に戻り、関羽を油断させた。途中で会った陸遜は、関羽を打倒して荊州を取る謀を練るよう勧めた。呂蒙は孫権に後任として陸遜を推薦し、陸遜は関羽に名を知られていないため適任とされ、呂蒙に代わって任に就いた。また医術を知る虞翻を従わせるよう願い出て、その罪が赦されることも望んだ。

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