伝記
元稹は、中国唐代中期の詩人・文人であり、宰相も務めた政治家である。字は微之、元九とも呼ばれた。大暦14年(779年)に長安の靖安里で生まれ、大和5年(831年)に没した。白居易の親友で、二人は「元白」と並び称される。
本貫は河南府河南県(洛陽の人ともされる)で、北魏の皇族の流れをくむ家柄とされ、先祖は隋や唐の官吏を務めた。しかし元稹の代には家は零落しており、祖父は県の属官、父は刑部の下級官吏で皇族の属官も務めた。父は元稹が7歳の時に亡くなり、元稹は母とともに長安から鳳翔(現在の陝西省宝鶏の近く)へ移った。貧しい家計のなか、聡明とされた母の鄭氏が学校へは通わせず、自ら読み書きを教えた。8歳で文章が書けるようになり、14歳または15歳で明経科に合格したという。23歳で秘書省の校書郎となり、806年、27歳のとき憲宗の前で行われた特別試験で白居易らとともに合格者18人のなかの首席となって、左拾遺に任じられた。
率直な性格で、左拾遺になると憲宗にしきりに意見を上げた。皇太子や諸王の属官にふさわしい資質を論じた文章は憲宗を感心させ、西北の吐蕃やウイグルへの防衛策を述べた上奏では、憲宗に召されて意見を求められた。しかし執政の官僚たちはこれをねたみ、元稹は都の長安から出され、東都洛陽を構成する河南県の県尉となった。母の死による喪が明けると、監察御史として呼び戻された。809年には東川に派遣され、故節度使の厳礪が不法に税を取り、88戸の財産を不当に奪っていたことを告発し、配下の七州の刺史が処罰された。ところが厳礪と親しい高官がおり、元稹は洛陽の東台へ出された。洛陽でも、浙西観察使の韓皋が県令を杖で打った件をはじめ、官吏の不正を追及し続けたが、宦官の仇士元との紛争で江陵府の司曹参軍に左遷された。その後、虢州長史から召されて都に戻り、中書舎人・承旨学士となり、穆宗の時には工部侍郎・同中書門下平章事、すなわち宰相に進んだ。だが4カ月で罷免され、同州刺史、さらに越州刺史兼浙東観察使に転じた。出世に熱心なあまり裴度と勢力を争ったとされ、詩文が穆宗に喜ばれたことや、宦官の巨頭崔潭峻と仲がよかったことが任官につながったともいわれる。829年に都へ戻って尚書左丞となり、830年に検校戸部尚書として鄂州刺史・武昌軍節度使を兼ね、831年、その地で急病のため53歳で没した。尚書右僕射が追贈された。
文学では、楽府体の詩に社会批判を取り入れ、叙事詩的な手法を用いて新楽府という新しい分野を開き、「才子」とも称された。白居易との唱和では、返詩に同じ韻を用いる次韻という形式を創り出し、これが「元和体」または「元白体」として一世を風靡した。813年には杜甫の墓誌を書いており、先人の作品への早い時期の称賛を含むとされる。伝奇小説『鶯鶯伝』は起伏に富む構成と達意の筆致で、のちの小説流行を導いた。ほぼ全作品は『元氏長慶集』60巻に収められている。その伝本には、明の万暦32年(1604年)の馬元調校本や四部叢刊本などがある。
私生活では、若く貧しい頃から苦労をともにした4歳下の妻、韋叢を31歳のとき病で亡くし、その悲しみを悼亡詩「遣悲懐」に詠んだ。成都の名妓で詩人の薛濤とも親しく、恋人だったかもしれないといわれる。白居易とは、資金がたまれば道士として隠棲しようと約束したが、元稹の急死で果たされなかった。
同じ年に亡くなった人物
- アブドゥルマリク・イブン・クレイブ・アルアスマイ (831年没)
- オベレリオ・アンテノレオ (831年)
- オムルタグ (831年没)
- 薛濤 (831年没)
- ズバイダ (831年)