HISTORICAL PERSON · 416年没

慧遠 (東晋)

東晋時代に廬山に住んだ高僧で、釈道安の下で出家した。30年余り山を出なかったという逸話から「虎渓三笑」の話が生まれた。鳩摩羅什と往復書簡を交わし、402年に念仏の誓願を立て、白蓮社の祖と仰がれた。

生涯
416年没
死亡地
中華人民共和国(湖北省)
出生地
中華人民共和国(山西省)
出典
世界地図
中華人民共和国(湖北省)

伝記

慧遠は、中国の東晋時代に廬山に住んだ高僧である。隋代の同名の僧と区別して、廬山の慧遠とも呼ばれる。俗姓は賈氏で、334年に生まれ、416年に没したとされる。中国仏教史の重要人物の一人である。

雁門郡楼煩県、現在の山西省寧武県の近くの出身である。儒教や道家の書を学び、13歳のころには母方の叔父に従って許昌や洛陽へ赴いたとされる。南へ向かう道が戦乱で断たれたため、太行山で僧の釈道安が率いる集団に加わり、弟の慧持とともに弟子となった。21歳の頃に道安のもとで出家したとされる。道安に随って各地を転々としたのち、366年に襄陽の檀渓寺に落ち着いたが、前秦の苻堅の軍が襄陽に侵攻して道安を長安に連れ去ったため、慧遠は師と別れて南へ下った。このとき慧遠は45歳であった。道安は別れに際して弟子たちに、それぞれの道を行くよう許したという。

慧遠は荊州の上明寺に移り、のち尋陽郡柴桑県に至って廬山に入った。廬山には旧友の慧永が西林寺にいた。慧遠は381年に龍泉精舎という質素な庵に落ち着き、のちに江州刺史の桓伊が建てた東林寺に住んだ。それ以後30年余り、一度も山を出なかったという。この事実を踏まえて創作された「虎渓三笑」の話が知られる。廬山には教養ある人々が在家の弟子として集まり、慧遠は戒律、禅観、阿毘曇、般若などを教えた。慧遠自らは俗世との関係を求めなかったが、朝廷や貴族の家とも交わりを持ったとされる。

401年に鳩摩羅什が関中に入り、後秦の都長安に国師として迎えられると、慧遠は羅什と書簡をやり取りして、新しく伝わった経典の疑問点をただした。その書簡集が『大乗大義章』である。翌402年には同志123名とともに、廬山の般若台の阿弥陀仏像の前で念仏実践の誓願を立て、白蓮社の祖と仰がれるようになった。ただし慧遠の念仏は、後世の浄土三部経に基づく称名念仏ではなく、『般舟三昧経』に基づく禅観の修法であった。

当時、廬山を含む長江中流域を握っていた桓玄に対しては、仏法は王法に従属しないと正面から説いた。『沙門不敬王者論』は404年の著作とされ、仏教徒も業報の教えを信じ、父母に仕え君に従う良き臣民たりうることを述べて、為政者の理解を求めたものである。戒律の整備にも努め、『十誦律』の翻訳と普及に力を尽くした。ほかの著作に『法性論』『釈三報論』『大智度論抄』があり、僧伽提婆と共訳した『阿毘曇心論』もある。後世、浄土教では初祖とされ、弟子には慧観、僧済、法安らがいた。宋代には、陶淵明や陸修静との出会いの伝説も広まった。

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