HISTORICAL PERSON · 220年没

黄忠

後漢末の劉備配下の武将。劉表に仕えたのち劉備に帰順し、益州攻略では常に先駆けて敵陣を攻め落とした。219年の定軍山の戦いで夏侯淵を討ち取り、後将軍となった。演義では五虎大将軍の一人。

生涯
220年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(河南省 / 南陽市)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

黄忠は、中国後漢末期の武将である。字は漢升、荊州南陽郡の人で、子に黄叙がいた。劉備に仕え、益州や漢中の攻略で活躍した勇将として知られる。はじめは劉表に仕えて中郎将に任じられ、劉表の従子である劉磐とともに長沙郡の攸県の守備についた。劉表が亡くなり曹操が荊州を降伏させると、曹操から仮の裨将軍に任じられ、職務はそのままで、長沙太守であった韓玄の配下に入った。赤壁の戦いの後、劉備が荊州南四郡を平定すると、黄忠は劉備に帰順して仕えるようになった。生年は148年ともされるが、没年は220年のほか221年、222年とする説もあり、確かではない。

その後は劉備に従って益州に入り、劉璋を攻撃する軍の一将となった。葭萌の戦いなどで常に先駆けて敵の陣地を攻め落とし、その勇猛さは軍中に鳴り響いたという。益州の平定後には討虜将軍に任命された。建安24年(219年)春、劉備が漢中を攻めると、黄忠は関中方面の総司令官であった夏侯淵と定軍山で対峙した。夏侯淵は勇猛果敢な将として名を知られていた。法正の指示を受けた黄忠は率先して軍を率い、背後から夏侯淵に襲いかかり、夏侯淵と曹操が任命した益州刺史の趙顒を討ち取って大勝利を収めた。これにより劉備は漢中を平定して漢中王となり、黄忠は征西将軍に昇進した。この定軍山で敵を谷に誘い込んで猛攻を加えたともいわれる。

同年秋、劉備は漢中王になると黄忠を後将軍に任命しようとした。これに対し諸葛亮は、張飛や馬超は黄忠の活躍を見ているので不満は言わないだろうが、荊州に残った関羽はそれを知らないので納得しないだろうと進言した。劉備は関羽の説得は自分がすると言って黄忠を後将軍に任命し、関内侯の爵位を与えた。後日、諸葛亮の不安は的中し、関羽は黄忠を「老兵」と侮って同列の前将軍になることを拒んだが、費詩の説得を受けて前将軍に就任した。

黄忠は翌建安25年(220年)7月に亡くなった。子が早世していたため、その家は断絶した。景耀3年(260年)になって剛侯の諡が贈られた。『三国志』の黄忠伝は、関羽・張飛・馬超・趙雲らの伝に比べて記述が少なく、裴松之による注釈もない。ただ、蜀書の末尾にある『季漢輔臣賛』には9番目に名が挙げられ、「義に厚い壮士」とされている。陳寿は、趙雲とともに彊摯・壮猛で軍の爪牙となったとして、灌嬰や夏侯嬰になぞらえた。

小説『三国志演義』では、60歳を過ぎた老将でありながら弓の名手として描かれ、敵将を一騎討ちで討ち取る場面も多く、関羽・張飛・馬超・趙雲とともに五虎大将軍の一人に数えられる。長沙では韓玄の配下として関羽と一騎討ちを演じ、互角に戦うが、馬が躓いて討たれそうになったところを関羽に見逃される。これに恩義を感じた黄忠は、再戦のときに関羽の兜の緒に矢を当てるにとどめて命を奪わなかったが、韓玄に内応を疑われて処刑されかかる。しかし魏延の反乱で韓玄が死に、劉備に仕えることになる。益州攻めでは魏延と功を競い、窮地に陥った魏延を二度にわたって救い、敵将の鄧賢を矢で討ち取る。漢中攻略では同じく老将である厳顔と組んで張郃らを破る。史実では220年に亡くなっているが、演義では夷陵の戦いにも加わり、劉備の老兵を軽んじる発言に発奮して出陣し、矢傷が悪化して、見舞いに来た劉備に中原の平定を託して息を引き取る。なお、現在の中国では、老いてますます盛んな人を、演義の黄忠のイメージから「老黄忠」と呼ぶようになっている。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物