伝記
曹操は、永寿元年(155年)に豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市)に生まれた、後漢末期の軍人・政治家・詩人で、実質的な魏の創始者とされる。字は孟徳、幼名は吉利といった。『三国志』は祖先を高祖劉邦に仕えた曹参とするが、曹参の家は魏晋の時代まで続いており、曹操の家はその嫡流ではなく、祖先はおそらく農民であったと考えられる。祖父の曹騰は安帝の時に宦官として宮廷に入り、順帝の即位後に中常侍に抜擢され、梁冀による桓帝の擁立にも関わって費亭侯に封じられ、大長秋に昇った。父の曹嵩は曹騰の養子で、出自は夏侯氏とする説もあるが、『三国志』の本文は不明としている。司隷校尉や大鴻臚を経て太尉に昇り、その地位を得るために一億銭を使ったという。
若い頃の曹操は機知と権謀に富んだが、放蕩を好んで素行が悪く、世評は芳しくなかった。叔父を仮病で陥れた話や、袁紹と花嫁を盗んだ話も伝わるが、信憑性は低い。ただ、橋玄は彼を見て「天下はまさに乱れようとしている。それを収めるのは君である」と絶賛し、何顒も「天下を安んずるものはこの人である」と評した。橋玄の勧めで人物評で名高い許劭を訪ねると、許劭は「治世の能臣、乱世の奸雄」と述べたと伝わる。この評で名が知られるようになり、熹平3年、20歳で孝廉に推挙されて郎となり、洛陽北部尉に任じられた。着任すると違反者を厳しく取り締まり、霊帝に寵愛された宦官蹇碩の叔父が夜間通行の禁を破ると、捕らえて打ち殺した。彼を疎んじた宦官らは追放の理由を見つけられず、かえって推挙して頓丘令に栄転させ、洛陽から遠ざけたという。光和元年(178年)には宋皇后の廃位に連座して免官されたが、二年後に議郎として召された。
光和7年(184年)に黄巾の乱が起こると騎都尉となり、皇甫嵩・朱儁の配下として潁川へ向かい、功績で済南の相となった。ここでも県令10人のうち8人を汚職で罷免し、淫祠として城陽景王の祠を廃した。東郡太守への異動は断って郷里に隠棲した。霊帝の暗殺計画への誘いも断っている。中平5年(188年)には西園八校尉の一人、典軍校尉に任じられた。霊帝の死後に何進が殺されると、董卓が洛陽に入って献帝を立てたため、曹操は洛陽を逃れて陳留郡己吾で挙兵した。その途中で呂伯奢の家で人を殺した話が伝わるが、『魏書』と『世語』などで内容が食い違う。
初平元年(190年)、袁紹を盟主に反董卓連合が成立し、彼は行奮武将軍に推された。董卓軍の徐栄と戦って敗れ、鮑信の弟らを失った。のち袁紹の推薦で東郡太守となり、初平3年(192年)には兗州牧に迎えられた。黄巾軍を降して精鋭を「青州兵」と名付けて編入し、荀彧が来ると「我が子房が来た」と喜んだ。父曹嵩らを陶謙側に殺された恨みから徐州へ侵攻し、数十万人を殺したと伝えられる(徐州大虐殺)。その隙に張邈らが呂布を迎え入れて反逆したが、興平2年(195年)に呂布を破って兗州を奪い返した。
建安元年(196年)に献帝を許昌へ迎え、大将軍、のち司空・行車騎将軍となり、屯田制も始めた。建安2年(197年)には張繍に大敗して長男曹昂や典韋を失ったが、袁術を破って呂布を滅ぼし、河北を制した袁紹との決戦に備えた。許都で董承らの謀反を処刑し、徐州を奪った劉備を建安5年(200年)正月に討つと、劉備は袁紹のもとへ走り、その将関羽を捕らえて客将とした。彼は建安25年1月(220年)に没し、廟号は太祖、諡号は武皇帝とされる。