HISTORICAL PERSON · 219年没

張機

後漢末の官僚・医師で、張仲景として知られ、医聖と称えられる。長沙太守を務めたが、疫病による親族の死を悼んで官を退き、医学に励んだ。経験をもとに『傷寒雑病論』を著し、漢方医学の最重要文献となった。

生涯
219年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(河南省 / 鄧州市)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

張機は、中国後漢末期の官僚・医師である。字は仲景で、張璣とも書かれ、一般には張仲景の名で知られる。荊州南陽郡涅陽県の人とされ、150年から219年にかけて生きたと伝えられる。のちにその功績から医聖と称えられるようになった。ただし生涯については確かなことが少なく、後の時代の記録に基づく部分が多いといわれる。生没年についても細部には異説があり、220年を上限とする見方が一般に受け入れられているという。

親孝行で清廉な人物であったため、孝廉に推挙され、建安年間(196年〜220年)の初め頃には長沙太守を務めていたとされる。ただし、191年までは孫堅が長沙太守であり、198年には長沙太守の張羨が劉表に反乱を起こしているなど、時期の点で合わない事情もある。青年時代には同郷の張伯祖から医術を学んだ。

当時は後漢末の混乱の中で、各地の群雄が領地を争い、さらに疫病が追い討ちをかけていた。張機の一族は200人ほどいたが、10年のうちにその3分の2が疫病で亡くなり、そのうち7割は傷寒病によるものだったという。この惨状に心を痛めた張機は、官を退いて医学の研鑽に専念することになった。

その医学は、医道に精通して治療にあたると同時に、謹厳さと柔軟性、強い責任感を持つことを旨とするものだった。先人の知識を尊重しながらも、患者それぞれの症状に応じて独創的な治療を試みたと伝えられる。『黄帝内経』など過去の医学文献に学び、各地で多くの処方を集めたうえで、医学書『傷寒雑病論』をまとめた。この書は、まもなく三国時代の戦乱の中で失われたともいわれる。

のちに『傷寒雑病論』は、晋の王叔和や宋代の宮廷医らによって整理され、主に熱を伴う流行性の感染症の治療を論じた『傷寒論』と、さまざまな臨床経験を集めて内科疾患を論じた『金匱要略方論』の二書に分けられた。これらは近代に至るまで何度も再構成されてきたが、漢方医学の最も重要な文献となり、張機は傷寒派の祖と見なされている。河南省南陽市宛城区には、順治13年の墓碑があり、「東漢長沙太守醫聖張仲景先生之墓」と大書されている。祠堂も建てられ、全国重点文物保護単位に指定されている。南陽には医聖祠もあり、張機をしのぶ場となっている。また、凍傷の予防のために餃子を考案したという伝説も伝わる。扁鵲、華佗、李時珍と並んで、中国古代四大名医の一人に数えられる。

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