HISTORICAL PERSON · 251年没

司馬懿

曹操に出仕して曹丕の信頼を得、太子四友の一人となった魏の武将・政治家。孫権を巻き込んで関羽を倒す策を献じ、孟達の反乱を8日で上庸に着く強行軍で鎮圧。大権を握って西晋の礎を築き、宣帝と追号された。

生涯
251年没
死亡地
中華人民共和国(河南省 / 洛陽市)
出生地
中華人民共和国(温県)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

司馬懿は、後漢末期から三国時代にかけての武将・政治家である。字は仲達。光和2年(179年)に生まれ、嘉平3年8月5日(251年9月7日)に没した。魏で功績を重ねて大権を握り、のちの西晋の礎を築いた人物で、西晋が建てられると廟号を高祖、諡号を宣帝と追号された。

河内郡温県の出身で、司馬防の次男にあたる。司馬氏は代々尚書などの高官を出した名門で、厳格な家風の下に育った。妻は張春華で、息子に司馬師・司馬昭らがいる。兄の司馬朗をはじめ八人の兄弟は字にすべて「達」が付き、聡明であることから「司馬八達」と呼ばれたが、その中でも司馬懿が最も優れるといわれ、崔琰にも高く評価された。建安6年(201年)に上計掾に推挙され、曹操が出仕を求めたが、風痹を理由に辞退した。のちに建安13年(208年)、丞相となった曹操から、ためらうなら捕らえてでも連れて来るよう命じられ、やむを得ず出仕した。やがて太子中庶子となり、曹操は鋭敏すぎる司馬懿を警戒したものの、曹丕とは親しく、陳羣・呉質・朱鑠とともに「太子四友」と称された。建安24年(219年)には、関羽が樊城を攻めて動揺が広がるなか、遷都の議に蔣済とともに反対し、孫権勢力を巻き込んで関羽を倒すよう献策して成功した。この年、厳格で知られた父の司馬防が死去している。

曹丕が魏の皇帝となると尚書となり、黄初5年(224年)には仮節・撫軍大将軍・録尚書事に叙せられ、5000人の兵権を与えられた。曹丕の死に際しては、曹真・陳羣・曹休とともに曹叡の補佐を託された。太和元年(227年)には宛城に駐屯して魏の南部を守り、翌年、蜀の諸葛亮と内通して背いた孟達を、昼夜兼行でわずか8日で上庸に至り、攻城16日で新城を落として斬った。太和5年(231年)には曹真の後任として諸葛亮と対戦したが、陣地にこもって動かず、張郃らの非難を受けて出撃し、大敗した。撤退する蜀軍を追わせた張郃は伏兵に射殺された。青龍2年(234年)の五丈原の戦いでは郭淮・辛毗らと防衛に徹し、諸葛亮が病死して蜀軍が退くと、その陣跡を見て「諸葛亮は天下の奇才だ」と漏らした。死せる諸葛が生ける仲達を走らせたと人々が言ったと聞くと、「私は生者のする事は推し測れるが、死者のする事は推し測れない」と答えたという。青龍3年(235年)には太尉となり、魏の軍事面の頂点に立った。

景初2年(238年)、遼東の公孫淵が反乱を起こすと、司馬懿は討伐を命じられた。曹叡に策を問われて、城を捨てて逃げるのが上策、襄平にこもれば生け捕りになるだけだと答え、1年あれば十分だと見通しを述べた。長雨で遠征の中止を訴える声が出ても、曹叡は司馬懿に任せておけば間違いないと取り合わなかった。司馬懿は持久戦をとり、食料の尽きた公孫淵が人質を出して和議を求めたのを退け、脱出した公孫淵父子を追って斬った。しかし戦後の処置は苛烈で、地元民の15歳以上の男子7000人余りを殺して京観を築き、公孫淵の高官2千余人も殺したという。この残虐な処理は後世に非難の対象となった。

景初3年(239年)、曹叡は病床に駆けつけた司馬懿に、曹真の長男曹爽とともに次の帝曹芳の補佐を託した。やがて曹爽の画策で、司馬懿は名誉職に近い太傅に移されたが、軍権は保ち、内政を曹爽が、軍事を司馬懿が分け合う形となった。正始2年(241年)に呉の朱然らが樊城を囲むと、これを退けた。その後、司馬懿は嘉平3年(251年)に世を去った。

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