HISTORICAL PERSON · 846年没

白居易

唐の中期を代表する詩人で、白楽天とも呼ばれる。「長恨歌」「新楽府」などを作り、詩文集『白氏文集』を編んだ。若い頃は諷諭詩、江州司馬への左遷後は閑適詩へ移り、詩と文は約3800首で唐代の詩人で最多。

生涯
846年没
死亡地
中華人民共和国(河南省 / 洛陽市)
出生地
中華人民共和国(新鄭市)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

白居易は、唐代中期の漢詩人である。字は楽天で、香山居士や酔吟先生とも称した。大暦7年(772年)、鄭州新鄭県に父の白季庚と母の陳氏の子として生まれ、本貫は太原郡陽邑県とされる。子どもの頃から頭脳明晰で、5、6歳で詩を作り、9歳で声律を覚えたという。十代から二十歳代の世に出る前までは、父の任地である衢州や襄州に移ることもあったが、多くは符離で暮らした。家は抜群の名家ではなかったが、安禄山の乱以後の政治改革で比較的低い家系の出身者にも機会が開かれており、貞元16年(800年)、29歳で進士科に合格した。

貞元19年(803年)に書判抜萃科に合格して秘書省校書郎となり、これが最初の任官であった。元和元年(806年)には官を辞し、元稹と華陽観に住んで受験の準備をした。その間に治政の要諦や時事への対策を研究し、「策林」75編をまとめている。この努力が実って制科に35歳で合格し、盩厔県尉となった。同じ年の冬に長編歌行「長恨歌」を作り、その後は翰林学士、左拾遺を歴任した。諫官である左拾遺のころには、社会や政治を批判する「新楽府」五十首を作っている。元和6年(811年)に母の陳氏が亡くなると官を辞して喪に服し、母を深く敬愛した彼は、その慈愛と訓導が子らの出世を導いたと文章に記した。

元和9年(814年)に長安へ戻って太子左賛善大夫となったが、翌年、武元衡の暗殺をめぐって上書し、これが越権行為とみなされて江州司馬に左遷された。多くの閑適詩が生まれたのはこの時期である。長慶元年(821年)に中書舎人として中央に呼び戻されたが、まもなく自ら地方官を願い出て、杭州・蘇州の刺史となり、治水などで業績をあげた。蘇州では虎丘へ通じる武丘路を開通させたが、病のため半年ほどで官を辞して洛陽に戻った。その後は秘書監、刑部侍郎、河南尹などを経て、会昌2年(842年)、「官人は70歳で退官すべきだ」という持論に従って刑部尚書で71歳のときに退いた。

彼は自らの詩を「諷諭」「閑適」「感傷」「雑律」の四つに分け、天下の救済を志して作った諷諭詩を最も重んじ、世に容れられないときに身を修める心境を詠んだ閑適詩をこれに次ぐものとした。感傷詩の代表作が「長恨歌」と「琵琶行」であり、無二の親友とされる元稹や劉禹錫との応酬詩も名高い。江州への左遷後は諷諭詩がほとんど作られなくなった。平易な詩風を重んじ、詩を作るたびに文字の読めない老女に読み聞かせ、分からない箇所を改めたという伝説もあり、その詩は士大夫のみならず妓女や牧童にまで愛唱された。会昌5年(845年)、74歳で『白氏文集』75巻を完成させ、翌会昌6年(846年)、洛陽の履道里の邸宅で75歳の生涯を閉じた。現存する詩と文は約3800首に及び、唐代の詩人の中で最多とされる。

日本でもその詩は愛された。承和5年(838年)に大宰少弐の藤原岳守が唐の商人の荷物から元稹と白居易の詩集を見つけて仁明天皇に献上し、従五位上に叙せられたと伝わり、承和11年(844年)には留学僧の恵萼により67巻本の『白氏文集』が伝来した。紫式部が『源氏物語』の桐壺の巻で「長恨歌」に多くを負い、清少納言が『枕草子』で「文は文集」と記したことからも、平安貴族に広く浸透していたことがうかがえる。1013年頃に成立した『和漢朗詠集』には漢詩句588首のうち彼の作品が136句あり、詩句では最多である。

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