伝記
ゲリウス・マクシムスは、219年に皇帝エラガバルスに対して反乱を起こしたローマの簒奪者である。反乱は速やかに鎮圧され、本人は処刑された。生年や出身地については記録がなく、没年は219年頃とされる。
父のルキウス・ゲリウス・マクシムスは医師で、皇帝カラカラの周辺で医療に携わったとされる。その功により属州財務長官にあたる属州総督代理の地位を得たが、元老院議員の身分には達せず、騎士身分の財務官僚にとどまった。息子のゲリウスは、医師の子でありながら元老院議員の身分に達し、第4スキュティカ軍団を指揮する立場に就いたともいわれる。軍団はシリアに駐屯しており、その野心的な性格は、この軍団の指揮官であった時期に表れたという。
218年、エラガバルスがマクリヌスから帝位を奪う政変の際、ゲリウスは軍団の指揮官としてゼウグマに駐屯していた。このとき、マクリヌスの幼い息子ディアドゥメニアヌスは、父とともにアンティオキアから逃れていた。その居場所を突き止めて捕らえさせたのは、軍団の百人隊長であったとされる。ゲリウスの軍団がディアドゥメニアヌスを捕らえたこの功績で、百人隊長はエラガバルスの感謝を得て、執政官への任命や上部ゲルマニア総督への任命といった厚遇を受けた。一方でゲリウスは顧みられず、ゼウグマの任地にとどまり続けた。この冷遇が反乱の動機になった可能性が指摘されている。
219年には、ゲリウスのほかにも複数の簒奪者が現れた。貴族の家柄を根拠にしたセイウス・カルス、皇室との縁を主張したアレクシアヌスとカスティヌス、軍事力を頼んだウェルスなどであり、ゲリウスも軍事力を帝位の根拠とした。ゲリウスは政情の不安定な時期に乗じ、コイレ・シリアで皇帝を名乗って反乱を起こした。
しかし反乱は、近くのサモサタに駐屯していた第16フラウィア・フィルマ軍団の軍団長の迅速な行動によって、すぐに鎮圧された。この人物の名は一部しか伝わっていない。反乱を起こしたゲリウスは、エラガバルスの命で処刑された。この反乱の主な史料は、同時代人の歴史家カッシウス・ディオの『ローマ史』であるとされる。