HISTORICAL PERSON · 219年没

劉璋

後漢末の群雄の一人で、益州牧。父劉焉の後を継いだが、趙韙の反乱などに苦しんだ。張松らの進言で劉備を益州に迎えたが対立し、214年に成都を開城して降伏した。のち孫権に仕えたが、間もなく病死した。

生涯
219年没
死亡地
中華人民共和国(甘粛省 / 中国)
出生地
中華人民共和国(天門市)
出典
世界地図
中華人民共和国(甘粛省)

伝記

劉璋は、中国後漢末期の政治家で、群雄の一人である。字は季玉。本貫は荊州江夏郡竟陵県で、父は益州牧の劉焉。劉焉の末の子で、若い頃は長兄の劉範、次兄の劉誕とともに奉車都尉として長安の献帝に近侍していた。献帝は、宗室でありながら専横を強める劉焉を諫めさせるため、劉璋を益州に派遣した。しかし劉焉はこれを聞き入れず、劉璋を二度と都に戻さなかったという。

興平元年(194年)に兄の劉範と劉誕が相次いで亡くなり、のちに劉焉が病死すると、州の大吏の趙韙らは劉璋の温厚で穏やかな性格を見込み、上書して益州刺史に推した。朝廷は劉璋を監軍使者・益州牧に任じた。建安5年(200年)には、自分に叛いた張魯の生母とその弟を見せしめのために誅殺している。この頃、劉璋と趙韙は対立を深めた。荊州や三輔出身の兵からなる東州兵が民衆を侵害しても劉璋は取り締まれず、政令にも欠けるところが多かったため、不満を抱く民は少なくなかった。趙韙はこの怨嗟を利用して豪族と結び、反乱を起こした。蜀郡・広漢・犍為の三郡が呼応し、劉璋は成都に籠城する窮地に陥ったが、東州兵の奮戦で趙韙軍は撃退された。趙韙は翌建安6年(201年)、配下の龐楽・李異らに裏切られて江州で斬られた。

曹操が荊州を制圧すると、劉璋は陰溥を使者として送って敬意を表し、曹操から振威将軍の位を与えられた。兄の劉瑁も平寇将軍の官位を得たが、のちに精神を病んで間もなく亡くなった。重臣のなかには張松・法正・孟達ら野心家がおり、劉璋のもとでは出世できないと見て、劉備を益州の牧として迎えようと画策した。益州にも張魯や曹操の脅威が迫っており、もともと戦が不得手だった劉璋は、張松らの進言を聞き入れ、建安16年(211年)に張魯との戦いへの援軍として劉備を迎えることを、あっさりと許した。劉備は客として迎えられ、張魯と戦う前線に赴く手はずだったが、それは張松・法正・孟達による、劉備を益州の主に迎える計画の一部だったとされる。王累・黄権・劉巴らは反対したが、劉璋は聞き入れなかった。

のちに張松の兄の張粛の密告で張松の内通が露見すると、劉璋は張松を処刑して劉備と対立し、劉備は軍勢を率いて攻め込んだ。鄭度は劉備軍を飢えさせるため焦土作戦を進言したが、優柔不断で領民思いの劉璋は受け入れなかった。劉循・張任らが懸命に抗戦したものの、戦慣れした劉備軍に敗れ、成都に迫られた。建安19年(214年)夏5月、劉備から降伏を勧められると、官民の多くは戦う覚悟であったが、劉璋は「私はもはや領民を苦しめたくない」と述べて降伏し、開城した。

降伏後は劉備の命で、次男の劉闡とともに荊州の公安に移された。長男の劉循は奉車中郎将として成都に留まり、そのまま劉備の家臣となった。建安24年12月(220年年始)、関羽が呂蒙によって殺され、荊州が孫権に奪われると、劉璋は孫権に帰順して家臣となり、益州牧に任じられたが、間もなく病死した。没年は220年とも219年ともされる。『三国志』の著者陳寿は、劉璋には英雄としての才が乏しく、土地や官位を奪われたのは不幸とは言えないと、厳しい評価を下している。家族には、母の費氏、娘婿で揚威将軍・江州都督となった費観がおり、曾孫の劉敞は隠士として知られた。また、法正・孟達・張任・劉巴・黄権ら、のちに蜀漢で名を成した人物の多くは、もとは劉璋に仕えていた人々である。

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