伝記
蘇轍は1039年、北宋の眉州眉山県に生まれた文人・官僚である。蘇洵の次男で、蘇軾より三歳下の弟に当たる。字は子由といい、父と兄とともに唐宋八大家の一人に数えられる。1057年、兄と同じ年に進士に及第した。商州軍事推官に任じられたが、首都で父を養うことにし、兄が鳳翔府の任地から帰ってから、大名府推官として赴任した。政治に携わる前の文章には、父と同じ題の『六国論』や、劉備と劉邦を比較して論じた三国に関する作品があった。儒教の思想を重んじ、なかでも孟子を敬いながら、さまざまな人の学問からも学んだ。
神宗の時代、三司条例司の属官となったが、王安石の改革には反対した。1070年には皇帝へ書簡を送り、新法について批判し、王安石にも意見を書き送った。皇帝への書簡では、当時もっとも急を要する課題として金銭の不足を挙げている。とくに青苗法に反対して、河南推官へ転出させられ、斉州掌書記を経て著作佐郎となった。地方官として過ごした時期には、文章も政治への論評から感情の表現へと移り、構成に拘泥するより、景色や人を生き生きと描くようになったという。1079年、兄の詩が政治的な罪に問われる烏台の詩案が起きた。蘇轍は自らの官職を差し出してでも兄を救おうとしたが、自身も事件に連座し、筠州の塩酒税を監督する職や、績渓知県へと降格された。
哲宗が即位すると召し出され、秘書省校書郎に任じられた。右司諫、起居郎、中書舎人、戸部侍郎と昇進し、翰林学士となったのち、権吏部尚書、御史中丞、尚書右丞を経て、門下侍郎に至った。宮廷へ戻ってからの文章は、政策への提言など、実際の政治に役立てることを重視したものであった。しかし、しばしば上書して率直に意見を述べたため皇帝の意にかなわず、汝州知州へ左遷された。次いで袁州知州に任じられたが、任地に着く前に朝議大夫へ落とされ、南京を経て筠州に至った。さらに化州別駕、雷州、循州へと移され、徽宗の代になっても永州、岳州などの地方を回った。その後、大中大夫に復帰し、提挙鳳翔上清・太平宮として許州へ移った。
蘇轍は兄を深く慕い、生涯にわたって兄に関わる作品を残した。兄の遺骸を葬る際には、長文の「亡兄子瞻端明墓誌銘」を書いている。1102年から1106年の崇寧年間に官を辞し、許州に住居を築いて、潁浜遺老と名乗った。交友を断ち、日々静かに座して経書や歴史、諸子の研究に取り組んだ。晩年の文章も、それまでの読書と経験を踏まえたものになった。文章を生み出す根本には「気」があると考え、書物を学ぶだけでは十分でなく、内面を養い、多くの経験を積むことによっても気を育てられると説いた。書にも優れ、詩風は鷹揚で淡泊、沈静で簡潔な人柄を示すと評される。
著作には、五十巻の文集をはじめ、『後集』『三集』『応詔集』があり、経書の注釈では『詩集伝』『春秋集解』『論語拾遺』『孟子解』『道徳経解』などを残した。歴史に関する仕事には六十巻の『古史』や、『龍川略志』『別志』がある。隠居後の研究生活はおよそ十年に及び、1112年10月25日に没した。数え七十四歳であった。死後、端明殿学士を贈られ、南宋の淳熙年間には文定の諡号を受けた。
同じ年に亡くなった人物
- ズビグニェフ (ポーランド公) (1112年没)
- シゲベルト・ヴァン・ジャンブルー (1112年)
- エンリケ (ポルトゥカーレ伯) (1112年没)
- タンクレード (ガリラヤ公) (1112年没)
- ギオルギ2世 (ジョージア王) (1112年)