伝記
マルグリット・ド・ブルゴーニュは、1393年12月8日に、ブルゴーニュ公家の長男でヌヴェール伯のジャン(のちの無怖公)と、その妻マルグリットの間の長女として生まれた。母はバイエルン=シュトラウビング公アルブレヒト1世の娘である。6人の娘の最年長で、弟にのちの善良公フィリップがいた。1394年7月9日、祖父の豪胆公フィリップ2世と、国王シャルル6世の間で、孫娘がシャルル6世の息子である王太子シャルルと結婚することが決まった。1396年1月に正式な婚約が交わされ、マルグリットは「王太子妃」と呼ばれた。姉妹は、ブルゴーニュ家の愛情深い家庭の雰囲気のなかで、父方の祖母であるフランドル女伯マルグリット3世のもとで育った。
1401年に婚約者の王太子シャルルが8歳で死ぬと、祖父と王妃イザボーは、アルマニャック派とブルゴーニュ派の内戦の勃発に備えて、新しい政略結婚を求めた。1403年5月、マルグリットは、新しい王太子となった亡き婚約者の弟、ギュイエンヌ公ルイと婚約した。1404年8月の終わりに結婚式が行われた。祖父は、孫娘を未来のフランス王妃にして、王家との結びつきを保とうとしていた。その3年前には、弟フィリップとルイの妹ミシェルが結婚しており、二重の縁組となった。祖父は1404年4月に死去し、父が家督を継いだ。クリスティーヌ・ド・ピザンは、若い王太子妃に学ぶべき素養と振る舞いを諭す手稿を献じたが、これは父の注文によるものとも考えられている。夫妻の初めての床入りは、1409年6月のことだったとされる。そのあと、マルグリットは義母イザボーの宮廷に移り、夫の寵をめぐって争うアルマニャック派とブルゴーニュ派の間で翻弄された。結婚は、1415年にルイが死んで終わった。マルグリットは実家に戻り、母と未婚の妹たちと暮らした。1419年に父が暗殺されると、弟のフィリップが当主となった。
1422年にシャルル6世が没すると、トロワ条約に基づいて、幼いイングランド王ヘンリー6世がフランス北部を治めるようになったが、マルグリットの義弟シャルルは、王位の継承を主張した。1423年、善良公はブルターニュ公ジャン5世、ヘンリー6世の摂政ベッドフォード公と同盟を結び、同盟を固めるため、妹アンヌと姉マルグリットを、ベッドフォード公と、ブルターニュ公の弟アルテュール・ド・リッシュモンに嫁がせることにした。マルグリットは、リッシュモンがイングランド軍の捕虜になっていることや、元王太子妃でギュイエンヌ公爵夫人の称号を保つ自分が伯爵と再婚すれば、同じように公爵夫人となった妹たちより身分が低くなることに不満があり、乗り気でなかった。善良公は信頼する従者レニエ・ポーを遣わし、ブルゴーニュ家にとってブルターニュ家との同盟が不可欠であること、善良公に子がないため、マルグリットが早く再婚して子を産むほうが有利だと説かせた。マルグリットは説得され、1423年10月10日にリッシュモンと再婚した。
リッシュモンは、フランス宮廷の重要人物となり、妻の実家の利益にも貢献した。やがてブルゴーニュ家とブルターニュ家は、シャルル7世と同盟した。マルグリットは、妻として夫を支え、夫がシャルル7世と仲たがいしたときは夫を守り、夫が戦地にいる間は所領を経営した。1436年、シャルル7世の陣営がパリを取り戻すと、夫とともにパリに移った。これ以後の消息はほとんど分からない。1442年2月、子のないままパリで死去した。遺言では、ピカルディ地方の教会に心臓を安置するよう望んだが、夫も弟も、その願いをかなえなかったようである。
同じ年に亡くなった人物
- エリーザベト・フォン・バイエルン (1383-1442) (1442年没)
- ジョン・カストリオティ (1442年没)
- ピエール・コーション (1442年没)
- ジョアン・デ・ポルトゥガル (1400-1442) (1442年没)
- 阮廌 (1442年没)
同じ地域に関係する人物
- ルイ・ブライユ (1852年没)
- アンリエット・ド・ヌヴェール (1601年没)
- アレクシス・グラノフスキー (1937年没)
- ソフィ・ジェルマン (1831年没)
- タジディン・マソウンデ (2004年没)