伝記
阮廌(グエン・チャイ)は、昌符4年(1380年)に生まれ、大宝3年8月16日(1442年9月19日)に没した、後黎朝の建国の功臣であり、政治家、儒学者、詩人である。号は抑斎という。功績によって皇室の姓「黎」を賜ったため、黎廌(レ・チャイ)とも呼ばれる。
陳朝の都であった昇龍(現在のハノイ)で生まれた。もとは海陽省の出身である。聖元元年(1400年)に科挙に及第し、短命だった胡朝大虞の進士となって、しばらく役人を務めた。胡季犛による陳朝の簒奪を罰するという名目で明が侵攻し、胡朝は滅び、1406年に安南は明の支配下に入った。明は安南を中国の一つの省にしようとし、反乱を容赦なく押さえ込んだ。阮廌の父も、明に捕虜として連行された。1417年、阮廌は、タインホア省の山地から占領への抵抗を続けていた黎利の軍に加わり、その参謀格となった。運動の主な助言者であり、戦略家、宣伝役でもあり、黎利の政治上の声明を書いて、民衆に反乱への支持を説いたとされる。
独立戦争は1417年から1427年まで続いた。1423年までは、黎利が山地の根拠地を使ってゲリラ戦を行い、停戦の交渉ののち、南のゲアン地方へ進んだ。そこから勝ち進み、タインホアから南の全域を押さえた。明は増援を送り続け、1426年には将軍の王通の軍が紅河デルタに着いたが、黎利軍は補給路を断って、田園地帯を支配し、明軍は首都などの城塞に孤立した。このとき阮廌は、明の司令官たちに書簡を送り、敵の戦意をくじいて有利な和平を結ぼうとした。1427年に明の宣徳帝が2つの大きな増援軍を送ると、黎利は軍を国境へ進め、チーラン=スオンザンの戦いなどで増援軍を打ち破った。王通は和を求めた。阮廌は黎利に、独立戦争の過程で捕らえた明軍の捕虜を解放するよう進言し、捕虜たちには食糧が与えられて、中国へ帰ることを許された。阮廌は勝利を告げる有名な布告『平呉大誥』を書いた。
順天元年(1428年)、黎利は皇帝に即位し、後黎朝を建てた(太祖)。阮廌は丞相となって太祖を補佐し、諸制度の整備に努め、明との関係改善にも努めた。しかし太祖の死後、次男の太宗が継ぐと、朝廷の権力争いが激しくなった。阮廌は太祖の死に際して摂政に任じられず、幼い太宗の摂政はレ・サットが務めた。太宗の扶育係でもあった阮廌は、建国の功臣としてその権力を危ぶまれ、故郷のチーリンの清虚洞に隠居し、詩作や瞑想を楽しんだ。1442年、太宗が閲兵式の帰りに阮廌の邸に立ち寄った際、急死した。このとき、阮廌の妻または側室の阮氏路と太宗との関係が噂されたともいう。阮廌は太宗暗殺の罪を着せられ、三族とともに処刑された。のちの聖宗の代に、無実を認められて名誉を回復され、金紫栄禄大夫に追封された。
国民的な詩人としても名高く、詩集を残し、独立戦争の詳細を記した書物も著した。歴史学、地理学、音楽など多くの分野に通じた学者でもあり、今もベトナム史上の偉人として人気が高い。彼の名を冠した通りは、ベトナムの各都市にある。
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