伝記
ジョアンは、1400年1月13日に、アヴィス朝の開祖であるポルトガル王ジョアン1世と、王妃フィリパ・デ・ランカストレの間の息子の1人として生まれた。実質的には四男にあたる。兄弟にはドゥアルテ1世、コインブラ公ペドロ、航海王子エンリケ、聖王子フェルナンド、姉にブルゴーニュ公妃イザベル、庶兄にバルセロス伯アフォンソがおり、この兄弟姉妹は「輝かしい世代」と呼ばれている。1415年、ジョアンは兄たちとともにセウタの戦いに参加し、まもなく父王から騎士に叙され、レゲンゴシュ・デ・モンサラージュ、コラレス、ベラシュの領主となった。1418年10月、父王の求めを教皇マルティヌス5世が承認し、18歳のジョアンはサンティアゴ騎士団の総長に任命された。古い軍事騎士団が王家の手に入ったのである。同じ年、すぐ上の兄エンリケとともに、救援の軍を率いてセウタへ向かい、モロッコとグラナダの連合軍による包囲をはねのけるのに貢献した。
1424年、庶兄バルセロス伯アフォンソの娘で、姪にあたるイザベルと結婚した。1431年にヌーノ・アルヴァレス・ペレイラ将軍が亡くなると、その後任として、ポルトガル軍総司令官に任じられた。このため「総司令官王子」と呼ばれることが多い。1433年に父ジョアン1世が没し、長兄がドゥアルテ1世として王位に就いた。1437年、ジョアンは次兄のペドロとともに、ドゥアルテ1世とエンリケが進めていたタンジール攻略の計画に反対した。しかしエンリケを総大将とする遠征は悲惨な失敗に終わり、マリーン朝のスルタンは、弟のフェルナンドを捕虜にした。ジョアンは、セウタを手放す代わりにフェルナンドを取り戻す条約の批准を求めたが、議会はこれを拒み、フェルナンドは捕らわれたまま世を去った。
1438年9月に、失意のドゥアルテ1世が急死し、幼い息子のアフォンソ5世が即位すると、母のレオノール・デ・アラゴンが摂政になった。この体制は、1380年代の革命で失った政治的な特権を取り戻したい大貴族たちの傀儡に、王太后がなるのではないかという不安を国内に呼んだ。内戦の気配が高まるなか、ジョアンは機先を制して首都リスボンを押さえ、市民が多数を占める議会を開かせて、次兄のペドロをアフォンソ5世の摂政に指名させた。大貴族の筆頭である庶兄バルセロス伯アフォンソは、王太后レオノールに強硬な態度を勧め、緊張をはらんだ共同摂政の体制が取り決められた。ペドロは、はじめの数年、ジョアンとの同盟のおかげで大きな権力を握った。
1442年10月18日、ジョアンは急死した。これはペドロにとって大きな打撃で、その後、ペドロは、庶兄バルセロス伯アフォンソの野心を抑えるのがしだいに難しくなった。摂政ペドロは、ジョアンの息子ディオゴをサンティアゴ騎士団の総長、ポルトガル軍総司令官に任じた。ジョアンとイザベルの間には、1男3女がいた。娘のイザベルはカスティーリャ王フアン2世と結婚し、のちのイサベル1世の母となり、娘のベアトリスはヴィゼウ公フェルナンドと結婚して、のちのマヌエル1世の母となった。
同じ年に亡くなった人物
- マルグリット・ド・ブルゴーニュ (1393-1442) (1442年没)
- ヨランド・ダラゴン (1442年没)
- 阮廌 (1442年没)
- エリーザベト・フォン・バイエルン (1383-1442) (1442年没)
- ジョン・カストリオティ (1442年没)
同じ地域に関係する人物
- Jose Manuel Mourinho Felix (2017年没)
- マヌエル・ベント (2007年没)
- フェルナン・メンデス・ピント (1583年没)
- フェルナンド (ヴィゼウ公) (1470年没)