伝記
ジョン・カストリオティは、アルバニアの封建領主で、没年は1442年とも1439年ともいわれる。イタリア語ではジョヴァンニ・カストリオータの名でも知られ、アルバニアの国民的英雄スカンデルベグの父である。カストリオティ家を没するまで率い、ロドン岬からディベルまでの地域を治め、2,000騎の兵を自由に動かせたという。
カストリオティ家は、北アルバニアのマト、ディベル、ハスのあいだの地方の出身である。一族は、アルバニア語で「馬の飼育者」を意味するマズレクという名を用い、部族への帰属を示していた。ジョンは、パルまたはゲルギという人物の子である。ある記録は、その父が二つの村しか治めていなかったと伝えるが、それが事実なら、はるかに広い地域を治めた息子が一代で力を得たことになり、アルバニアの中世社会ではほとんどありえないとして、疑問が出されている。歴史家クリスト・フラシェリは、父がその地方を14世紀の第3四半期、1350年から1375年のあいだに治めていたとみる。孫のスカンデルベグが生まれたとき、ジョンはすでに、ポログ谷の小領主の娘ヴォイサヴァとのあいだに7人の子をもうけていたからである。カストリオティ家が記録に初めて現れるのは、ジョンの時代、14世紀末から15世紀初めである。
ジョンが封建領主として台頭したのは、アルバニアの内政が、多くの交易の拠点を押さえるヴェネツィア共和国と、小さな独立の領主を次々に臣従させていたオスマン帝国とに、しだいに左右されていた時代であった。アルバニアの領主たちは、この二つの大国のあいだで均衡をとりながら、互いに競い合わねばならなかった。1402年には、ジョンはコイア・ザハリア、ディミテル・ヨニマらとともに、オスマンのスルタン・バヤジット1世の臣下として、自ら手勢を率いてアンカラの戦いに加わった。この戦いでのオスマンの敗北は、オスマンのアルバニアからの後退をもたらし、参戦した一族は力を弱めた。力の空白のなかで、ジョンは地位を強め、ヴェネツィアの交易拠点に近い沿岸地帯への拡大を図った。彼は内陸の商人に安全な通行を与えたが、ヴェネツィアの領地への要求は持たなかった。ヴェネツィアは、この同盟を、ほかの領主やオスマンに対する均衡と見た。
1413年に、ジョンはヴェネツィアの宗主権を受け入れ、相続人とともにその市民とされた。1415年から1417年のあいだにオスマンの臣下となったのちも、ヴェネツィアとの良好な関係を保った。1419年に、ヴェネツィアはカストリオティ家とドゥカジニ家を買収して、ゼタと戦わせようとしたが、成功しなかったようである。1419年から1426年には、同じくオスマンの臣下であったセルビアの専制公ステファン・ラザレヴィチの同盟者となった。ラザレヴィチは1421年にゼタを奪ったが、ヴェネツィアはこれを認めず、戦争が再開した。ジョンのアルバニア人の兵が、息子の一人に率いられ、ラザレヴィチがゼタに着くとすぐ、これに加わった。彼はクルヤ地方のカトリックを信仰する貴族で、オスマンとの国境に接する貴族にはよくあることだったが、子供たちをオスマンの宮廷に連れ去られて、忠誠を誓わされていたという。1430年にクルヤでオスマンに対して謀叛を起こしたが、不首尾に終わったとされ、その死後、スルタンのムラト2世はすぐにアルバニア中部を平定した。
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