伝記
班超は、後漢の政治家・軍人である。32年に生まれ、102年に没した。字は仲升、右扶風安陵県の人である。父は『漢書』を著した班彪、兄は歴史家として名高い班固、妹は女流文人として知られる班昭である。歴史家の家に生まれ、幼い頃は兄とともに歴史を学んだ。62年、兄の班固が招かれて校書郎となると、班超は母と妹を連れて洛陽に移った。家は貧しく、役所で文書を書き写す仕事をして親を養っていた。その仕事の最中、班超はしばしば筆を置いてため息をつき、傅介子や張騫のように国外で功を立てて侯に封ぜられたいものだと語った。周囲は彼を嘲笑ったが、班超は凡人にどうして志士の心が分かろうかと答えたという。ここから「投筆従戎」の言葉が生まれ、文人が筆を捨てて兵士になることを指すようになった。
73年、明帝が竇固を大将として北匈奴の討伐に乗り出すと、班超は仮司馬として従軍し、蒲類海の戦いで多くの首級を挙げた。竇固はその有能さを認め、班超を郭恂と34人の部下とともに西域諸国への使者に送り出した。鄯善国で、初めは歓迎されていたのに次第に雰囲気が悪くなったが、そこへ北匈奴の使者も来ていたのである。班超は怯える部下を「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と励まし、北匈奴の一団に夜襲をかけた。36人に対し相手ははるかに多かったが、奇襲を受けた匈奴は慌てふためき、班超らが大勝した。鄯善国は漢に降伏した。班超は于窴王の広徳を降し、疏勒国では亀茲側の王が立てた兜題を捕らえ、前王の兄の子である忠を王に立てた。西域の南半分は後漢の勢力下に入った。
75年に明帝が崩御すると、焉耆国が漢に背いて西域都護の陳睦を殺し、亀茲・姑墨が疏勒を攻めた。班超は盤橐城を守って抗戦したが、情勢が不利と見て一度于窴に退いた。戻ったときには疏勒の両城が亀茲に落ち、疏勒は尉頭国とともに寝返って孤立無援であったが、班超は反逆者を斬り、尉頭国を破って疏勒を取り戻した。即位した章帝は西域都護を廃し、西域を放棄する方針をとり、班超にも帰還を命じた。しかし西域の王や貴族が、漢軍が去れば北匈奴が戻ってきて漢に味方した者を皆殺しにすると泣きついたため、班超は残ることを決めた。命令に背いて本国から絶縁され、三十余人の部下とともに5年間疏勒に留まった。80年、初めて千余人の援兵が送られ、事態は好転していく。
87年には莎車を攻め、救援に来た西域連合軍を詭計で破って莎車を後漢の支配下に置いた。同年、クシャーナ朝の王ヴィマ・タクトが使者を送ってきて漢の公主を求めたが、班超はこれを拒んで追い返した。90年、求婚を断られたためか、クシャーナ王が副王の謝を派遣して攻めてきたが、班超は持久策で撃退した。以後、クシャーナ朝は毎年後漢に貢献するようになった。91年には亀茲を降し、和帝が西域都護府を復活させて班超を西域都護に任じた。94年には焉耆・危須・尉犁・山国を破り、焉耆王と尉犁王を斬って、西域の50余国が後漢に内属した。この功により、95年3月に定遠侯に封じられた。97年には部下の甘英を安息国の東の境の木鹿城に派遣したが、さらに西の大秦に至った記録はない。
100年、西域に31年いた班超は、故郷が懐かしくなって帰国を願う上書を出した。その中に「ただ願わくば生きて玉門関に入らんことを」とあり、これが「生きて玉門関に入る」の故事の由来となった。願いは聞き入れられ、102年8月に洛陽へ帰還したが、1か月後の9月に死去した。享年71。班超の去った後、羌が涼州で反乱を起こして後漢の西域支配は弱まり、子の班勇らが再び諸国を従えたものの、班超の頃の勢力は戻らなかった。