HISTORICAL PERSON · 300年没

賈南風

西晋の恵帝の皇后。賈充の娘。楊駿・司馬亮・司馬瑋を次々と死に追い込んで権力を握り、国政は比較的安定したともされる。皇太子司馬遹を殺して司馬倫の挙兵を招き、失脚し自死に追い込まれた。

生涯
300年没
死亡地
中華人民共和国(河南省 / 洛陽市)
出生地
中華人民共和国(襄汾県)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

賈南風は、中国西晋の第2代皇帝である恵帝の皇后。幼名を旹といい、平陽郡襄陵県の人で、父は賈充、母は郭槐である。甘露2年(257年)、魏の高官であった賈充の三女として生まれた。泰始7年(271年)、涼州で禿髪樹機能の乱が起こり、賈充が長安への赴任を命じられると、洛陽を離れたくない賈充は娘を皇太子司馬衷の妃にするよう武帝に勧めた。武帝は衛瓘の娘を迎えるつもりで応じなかったが、母の郭槐が皇后楊艶の侍従に賄賂を贈り、楊艶や賈充の側近たちが賈南風の美貌と才徳を称えたため、ついに武帝も認めた。泰始8年(272年)2月、賈南風は太子妃に立てられた。

太子妃となった賈南風は残虐で嫉妬深く、身重の側室を胎児ごと手にかけたこともあった。激怒した武帝は金墉城に幽閉して離婚を命じようとしたが、楊芷や馮紞、荀勗らが取りなして思いとどまった。賈南風はその事情を知らず、しばしば諫めた楊芷を逆恨みした。皇太子の司馬衷は暗愚とされ、衛瓘らが廃立をほのめかすと、武帝は難題への決裁を太子に課して力量を試そうとした。賈南風は張泓に下書きを書かせ、司馬衷に手直しさせて提出し、武帝を満足させて廃立を免れた。後にこれを知った賈充は衛瓘を深く恨み、賈南風もまた衛瓘を憎むようになった。

太熙元年(290年)に武帝が崩じて恵帝が即位し、賈南風は皇后となった。当初は外戚の楊駿が実権を握ったが、賈皇后は孟観、李肇、宦官の董猛らと謀り、汝南王司馬亮、続いて楚王司馬瑋を引き入れた。永平元年(291年)3月、クーデターを起こして楊駿一党を誅殺し、楊氏は三族皆殺しとなった。続いて司馬亮と衛瓘が朝政を担うと、賈南風は司馬瑋を使って二人を殺させ、さらに張華の勧めに従って司馬瑋も偽詔の罪で処刑した。元康2年(292年)には幽閉していた楊芷を飢えさせて死なせた。

実権を握った賈南風は、一族の賈謐らとともに朝廷を動かし、張華、裴頠、裴楷らを登用した。賢臣たちが力を合わせたため国政は安定し、賈南風も張華にだけは敬意を保ったという。一方で自らは遊興にふけり、淫虐が日ごとに激しくなったとも伝えられる。親戚の賈模は災いを恐れ、裴頠、張華と相談して賈南風を廃し、謝玖を皇后に立てようと考えたが、実行には移されなかった。賈模は幾度も諫めたが聞き入れられず、かえって疎んじられ、憂いのうちに病死した。元康6年(296年)に洛陽へ召還された趙王司馬倫は賈氏一派に取り入って信任を得た。また賈謐が皇太子に無礼な態度をとり、成都王司馬穎に咎められて賈南風に讒言すると、賈南風は司馬穎を鄴の鎮守に任じて朝廷から追い出した。賈南風には4人の娘がいたが男子はなく、皇太子の司馬遹は淑妃謝玖の子であった。賈南風はこの太子を忌み嫌い、母の郭槐は死の間際に関係の改善を求めたが、聞き入れなかった。

元康9年の12月、賈南風は恵帝の病を告げて司馬遹を呼び出し、酒を飲ませて酔わせ、廃位を企てる内容の文章を詔と偽って書き写させた。張華らの反対で処刑は見送られ、司馬遹は庶人に落とされたが、やがて賈南風廃立の動きが噂になると、賈南風は孫慮に命じて司馬遹を暗殺させた。これを名分として、趙王司馬倫と孫秀が梁王司馬肜、斉王司馬冏らとともに永康元年(300年)4月3日に宮中へ突入した。賈謐は殺され、賈南風は「詔をつくるのは我であるぞ」と叫んだが捕らえられ、庶人に落とされて幽閉された。同月9日、金粉入りの毒酒を届けられて自殺させられた。賈氏一族も皆殺しにされた。

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