HISTORICAL PERSON · 紀元前307年没

武王 (秦)

戦国時代の秦の第27代君主で恵文王の子。司馬錯が楚を討って黔中郡を置いた。不仲だった張儀は魏へ去った。丞相を初めて置き、甘茂に宜陽を攻略させた。前307年、鼎の挙げ比べで脛骨を折り23歳で死去した。

生涯
紀元前307年没
死亡地
中華人民共和国(河南省 / 洛陽市)
出生地
—
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

武王は、中国戦国時代の秦の第27代君主で、第2代の王である。姓は嬴、諱は蕩といい、恵文王の子で、昭襄王の異母兄にあたる。史書によって悼武王、武烈王、元武王などとも書かれる。庶兄弟には公子壮、公子雍、公子池、涇陽君、高陵君らがいた。

恵文王が紀元前311年に没すると、太子であった蕩が即位した。武王は父王の臣をそのまま用い、司馬錯が楚を討って商・於の地を奪い、黔中郡を設置する成果を挙げた。一方、武王は太子の頃から謀略家の張儀と不仲だったため、群臣は張儀を讒言するようになった。諸侯は両者の不和を知ると、連衡に背いて再び合従へ傾いたという。武王元年(紀元前310年)に魏の襄王と臨晋で会った後、張儀は誅されることを恐れ、自分を魏へ遣わしてほしいと願い出た。翌年に魏へ赴いた張儀は、そのまま秦へ戻らず魏で没した。

内政では、先王から続く蜀の経営が引き継がれ、紀元前310年に成都に大城が築かれた。紀元前309年に蜀の国相陳壮が謀反を起こして蜀侯通を殺すと、武王は甘茂や司馬錯に命じてただちに討伐させ、陳壮を誅殺して乱を収めた。翌紀元前308年には恵文王の子の公子惲を蜀侯に封じ、蜀の政情はひとまず安定した。この年、秦は初めて丞相を置き、樗里疾と甘茂を左右の丞相とした。また紀元前309年11月には、甘茂らに命じて為田律を定めさせた。農田と道路の制度を詳しく規定し、毎年決まった時期に修復させるものであった。

武王は、兵車を三川に入れ、西周の王室をおびやかして天下に号令できるなら死んでも悔いはない、と甘茂に語った。そこで甘茂は魏と組んで韓を討つ約束を結ぶため使者に立った。帰国した甘茂は息壌で武王に会い、韓の要地である宜陽は大邑で落とすのが難しいこと、戦のさなかに樗里疾や公孫衍が韓に好意を寄せて自分を非難すれば、王が疑うかもしれないことを述べた。曾子の母が三度の知らせで息子を疑った故事を引いて覚悟を問うと、武王は二人の言葉を聞き入れないと誓い、息壌で堅く盟った。紀元前308年秋に宜陽攻めが始まったが、5カ月が過ぎ翌年になっても落ちず、樗里疾と公孫衍が甘茂を非難した。武王が甘茂を召し戻そうとすると、甘茂は「息壌はそこにあります」とだけ答えた。武王は盟いを思い出して全軍を動員し、ついに宜陽は陥落、首級6万が斬られた。甘茂は黄河を渡って武遂に城を築くまでに至ったが、この激戦は韓だけでなく秦をも大きく疲弊させた。

武王は力が強く、力試しを好んだ。そのため任鄙や烏獲といった力自慢の武将が、みな大官に任じられたという。紀元前307年8月、洛陽を訪れた武王は、大力で知られる孟賁と鼎の挙げ比べを行い、脛骨を折って世を去った。享年は23とされ、21、22歳ともいわれる。孟賁は罪に問われ、一族は滅ぼされた。子がないままの急逝だったため後継者争いが起こったが、燕にいた異母弟の公子稷が即位した。これが昭襄王である。公子稷は、叔父の魏冉や趙の武霊王の支持を得て秦に戻り即位したとされる。武王の死後、甘茂は秦を去って魏に仕えた。宜陽の攻略によって、秦は周の都洛陽へ通じる重要な道を押さえたといわれる。武王は永陵に葬られた。その位置について、咸陽県の西北にある、誤って周武王陵と呼ばれる場所とする説がある。現在の陝西省咸陽市渭城区には周文王陵・周武王陵と伝えられる墳丘があり、調査でその地下に秦代の陵と環濠が確認されている。ここが永陵の有力な候補地とされ、東南3.8キロメートルにある2基の墳丘と墓をあてる説もある。

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