伝記
タンクレードは1075年、南イタリアに生まれた貴族である。母エンマを通じてオートヴィル家につながり、アンティオキア公ボエモンの甥に当たった。父方はフランク系の北イタリアの支配家系、アレラーミチ家に属したとされる。1096年、叔父ボエモンに従って第一回十字軍に参加した。コンスタンティノープルでは、征服した土地をビザンツ帝国へ返還すると誓うよう求められたが、誓約自体を拒んだ。1097年のニカイア攻囲戦に加わったものの、市が秘密交渉を経て皇帝アレクシオス一世の軍に接収されると、ビザンツ側への不信を深めた。同年、軍の分進に際して南へ進み、タルススやアダナなどを攻略した。
1098年にはアンティオキア攻囲戦に参加し、翌1099年7月15日のエルサレム突入では、最初に市内へ入ったと主張した。陥落後は略奪と殺戮に加わったが、戦闘の終わりごろ、ソロモン神殿の屋根へ逃れた市民の一団に自分の軍旗を与え、その安全を保障しようとした。ところが市民たちは別の軍勢によって殺され、タンクレードは激怒したという。エルサレム王国が成立すると、ナブルスやバイサンを含む地域を掌握し、ゴドフロワ・ド・ブイヨンからティベリアスの領主に任じられた。1100年五月にはサワドの地を攻撃した。
同年八月、ボエモンがダニシュメンド朝の待ち伏せに遭い、捕虜となった。1101年三月、タンクレードはアンティオキア公国の摂政を引き受け、一定期間内に叔父が帰還すればガリラヤの統治へ戻るという条件で、ガリラヤを離れた。公を称さず、貨幣には神の僕や大エミールと刻ませた。キリキアへ遠征してマミストラ、アダナ、タルススを奪還し、ラタキアも包囲した。海軍力を得るためジェノヴァに経済的利益を約束し、同盟を強めた。1102年、ラタキアの救援に来たトゥールーズ伯レーモン四世を捕らえ、シリアに再び干渉しないとの誓約を得て釈放した。ラタキアは1103年春に陥落したが、同年にボエモンが解放されて戻ると、摂政としての権限を返した。
1104年、エデッサ伯ボードゥアンらとハッラーンへ進んだ。しかし領有権をめぐって諸侯の足並みが乱れ、十字軍は大敗し、ボードゥアンとジョスランが捕虜になった。タンクレードはエデッサに入って摂政となり、守りを立て直した。戦闘中に捕らえた貴婦人の返還と引き換えに、金貨一万五千ベザントかボードゥアンの釈放を選ぶよう提示されると、自身の統治を保つため金銭を選んだという。一方、アンティオキアの領地はアレッポやビザンツに奪われた。ボエモンがイタリアへ発つと、再び公国の摂政となり、1105年春にリドワーンの軍を破って、年内に国境を回復させた。
1106年にはアパメアを二度包囲し、秋の攻撃で降伏させた。1108年、解放されたボードゥアンにエデッサ返還の条件として臣従を要求したが拒まれ、アルメニア貴族らの支持を得た伯に対し、同地を放棄せざるを得なくなった。その後も両者はイスラム勢力とそれぞれ結んで戦った。1109年、トゥールーズ伯ベルトランとギヨーム・ジョルダンの遺産争いでは、後者から臣従を受けて支援した。タンクレードは1112年十二月に没した。没日は五日とも十二日ともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
- シゲベルト・ヴァン・ジャンブルー (1112年)
- ズビグニェフ (ポーランド公) (1112年没)
- 蘇轍 (1112年没)
- エンリケ (ポルトゥカーレ伯) (1112年没)
- ベルトラン (トゥールーズ伯) (1112年没)
同じ地域に関係する人物
- リバニオス (394年没)
- ヤーギー・スィヤーン (1098年没)
- Prochorus (100年没)
- ベレニケ (紀元前245)
- ペトルス・バルトロメオ (1099年没)