HISTORICAL PERSON · 1112年没

エンリケ (ポルトゥカーレ伯)

ブルゴーニュ公子アンリの五男でフランス出身。レコンキスタでの功績によりポルトゥカーレ伯領を与えられ、息子は後の初代ポルトガル王アフォンソ1世となった。

生涯
1112年没
死亡地
スペイン王国(レオン県 / アストルガ)
出生地
フランス共和国(ディジョン)
出典
世界地図
スペイン王国(レオン県)

伝記

エンリケ・デ・ボルゴーニャは、1066年にフランスのディジョンに生まれたポルトゥカーレ伯である。フランス名ではアンリ・ド・ブルゴーニュという。ブルゴーニュ公子アンリとシビラの末子で、五男に当たり、兄のユーグ一世とウード一世はブルゴーニュ公を継いだ。カスティーリャ・レオン王アルフォンソ六世の妃コンスタンサは父方の叔母であり、クリュニー修道院長ユーグも親族であった。母シビラの出自には異説があり、ブルゴーニュ伯ルノー一世の娘とする説に従えば、ガリシアを治めるライムンド・デ・ボルゴーニャとは従兄弟となる。

末子だったエンリケには、相続によって財産や称号を得る見込みが乏しかった。1086年十月、アルフォンソ六世の軍がサグラハスの戦いで敗れると、王は翌年、ピレネー山脈の北側へ援助を求めた。これに応じたフランスの貴族や騎士の中には、ライムンドやウードとともにエンリケも含まれていたとされる。ただし、1087年の最初の遠征で半島に到着したかは確かではない。エンリケはレコンキスタに参加してイスラム勢力と戦い、現在のガリシアとポルトガル北部に当たる地域の獲得に力を貸した。

その褒賞として、1093年にアルフォンソ六世の庶子テレサと結婚したとされる。テレサは王とヒメナ・ムニョスの娘で、ウラカとは異母姉妹であった。エンリケはポルトゥカーレの領地と伯位も与えられたが、その年は1093年とも1096年ともいわれる。これはミーニョ川からタホ川までの地域で、以前はライムンドが治めていた。半島での活動が確実になるのは1096年で、ギマランイスやコンスタンティン・デ・パノイアスの特許状を承認している。1096年十月と1097年一月には、トルデシリャス伯としても名が現れる。こうして王の娘婿となり、レオン王に直接臣従する領主の地位を得た。

この1096年から1097年にかけての時期、エンリケは宮廷で影響力を弱めていたライムンドと、将来の権力と財宝の分配について協定を結んだ。ライムンドはアルフォンソ六世の死後、トレド王国と王の財宝の三分の一をエンリケへ渡すと誓い、トレドを渡せなければガリシアを与えるとした。エンリケはその代わり、ライムンドが王の全領土と財宝の三分の二を得られるよう助力を約束した。修道院長ユーグも承認した協定である。王がこれを知り、対抗して領地を分割したともいわれる。娘婿二人のうち、ライムンドの支配はガリシアに限られ、エンリケはその下でなく王に直属する立場となった。

アルフォンソ六世の死の少し前、エンリケは王と不和になり、王位を争うための傭兵を集めようとフランスへ赴いた。1109年に王が没してウラカが継ぐと、エンリケはその夫であるアラゴン王アルフォンソ一世と、イスラム勢力から奪う領土を等分する約束を結んだ。両者は共同してサラゴサのイスラム王の軍を破った。エンリケは1112年五月、アストルガで没し、ブラガ大聖堂に葬られた。テレサとの三男三女のうち、成人した男子はアフォンソ一人であった。この息子は1128年に母と争って伯領の支配を握り、1140年にはポルトガル人の王を称した。レオンからの独立は1143年のサモラ条約で認められ、1179年には教皇の承認も得た。

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