伝記
鍾繇(しょう よう)は、後漢末期から三国時代の魏にかけての政治家・書家である。字は元常。豫州潁川郡長社県(現在の河南省許昌市長葛市)の出身で、子に鍾毓・鍾会がいる。若いころ、族父の鍾瑜に連れられて洛陽へ向かう道中で人相見に会い、「貴人に上る相と水難の厄がある」と告げられた。10里も進まぬうちに橋を渡ると馬が驚いて橋から落ち、危うく死ぬところだった。予言が当たったので鍾瑜はいよいよ彼を大事にし、学費を出して学問に専念させた。のち孝廉に推挙され、尚書郎、陽陵県令を経て、一度病で官を去ったが、三公の府に招かれ廷尉正・黄門侍郎を歴任した。
当時、献帝は長安にいて、李傕・郭汜らが市街を乱し、関東とは連絡が断たれていた。兗州牧となった曹操が初めて使者を送って上書したとき、李傕らは拒もうとしたが、鍾繇が「曹兗州だけが王室に心を寄せているのに、その忠心に逆らうのは得策ではありません」と諫めて受け入れさせた。曹操はもともと荀彧から鍾繇を推薦されており、この話を聞いてますます親しみを抱いた。195年に献帝が長安を脱出し、196年に曹操が擁立すると、鍾繇は脱出に貢献した者として、侍中・尚書僕射となり、東武亭侯に封じられた。
その後、曹操は山東での戦いのあいだ、背後の関中にいる馬騰・韓遂を憂慮し、鍾繇を司隷校尉兼務・持節として関中諸軍の指揮を任せた。鍾繇は長安に着くと、相争っていた馬騰と韓遂を和解させ、その子らを人質として参内させた。200年の官渡の戦いでは2000頭余りの馬を軍に供給し、曹操から「昔の蕭何にも匹敵する」と称えられた。202年に匈奴単于の呼廚泉が平陽で反乱を起こすと、これを包囲したが、袁尚配下の高幹と甥の郭援が救援に現れて形勢が悪化した。諸将は撤退を望んだが、鍾繇は郭援の軽率さを見抜いて戦い続け、張既を通じて馬騰を味方につけ、馬超ら1万余の援軍を得た。郭援は汾河を渡る最中に攻撃を受けて大敗し、龐徳に斬られた。鍾繇はその首を見て涙したが、龐徳が謝ると「甥でも国賊だ。何を謝ることがあるか」と答えた。呼廚泉と高幹は降伏した。211年、張魯討伐に際して関中の諸将から人質を取ることを提案して採用されたが、疑った馬超・韓遂らが反乱を起こし、潼関の戦いとなった。一方で人口が激減していた洛陽の再興にも取り組み、関中の住民や逃亡者・反乱者を移住させた。
魏が建国されると大理、216年には相国に昇ったが、219年に魏諷の反逆に連座して免職となった。曹丕が王位に即くと大理に復職し、皇帝に即位すると廷尉となり、223年に太尉・平陽郷侯、曹叡の即位後の226年には太傅・定陵侯に進んだ。膝を病んだため、朝見には車で参内し、虎賁に担がれて着席することを許され、これは以後、三公が病のときの慣例となった。鍾繇は死刑の代わりに肉刑を復活させることを唱え、太和年間にも再び上奏して、年に3000人を救えると主張した。しかし王朗ら反対者が多く、曹叡は敵国の平定が先だとして見送った。230年4月、80歳で没し、成侯と諡された。曹丕は鍾繇・華歆・王朗を「一代の偉人」と称え、陳寿は鍾繇を「道理に通じ、司法の才があった」と評した。
書家としては小楷の書法で名を残し、隷書と行書に長じた。隷書と楷書の中間のような書体は鍾繇体と呼ばれ、王羲之をはじめ多くの書家に学ばれた。作品には『宣示表』『薦季直表』などがある。荀彧を顔回になぞらえて敬い、荀攸の没後はその家族の面倒を見た。嫡子の鍾毓は後将軍にまで上り、庶子の鍾会は蜀の平定に功を立てたが264年に反乱を企てて敗死した。
同じ年に亡くなった人物
- 聖セシリア (230年)
- アイリアノス (230年代没)
- ウルバヌス1世 (ローマ教皇) (230年没)
- マリウス・マキシムス (230年没)
- レムノスのピロストラトス (230年)