HISTORICAL PERSON · 1085年没

神宗 (宋)

北宋第6代皇帝。王安石を登用して新法改革を推し進めたが、旧法派の反対や天災により王安石を一時解任した。

生涯
1085年没
死亡地
中華人民共和国(河南省 / 開封市)
出生地
中華人民共和国(開封市)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

神宗は、1048年5月25日に生まれた北宋の第六代皇帝である。諱は初め仲鍼、のち頊といった。1066年に皇太子となり、翌1067年、英宗の死去によって即位した。国家の財政、官僚制、軍事の問題を改革し、領土の拡大を目指す君主であった。即位すると経費削減のための機関を設け、司馬光を長に据えようとしたが、司馬光は辞退し、財政問題の大きさを指摘する報告を提出した。軍事費は国家の現金収入の八割以上を占め、人数の多い官僚組織の維持にも費用がかかっていた。神宗は辺境への出兵には国庫を充実させる必要があると考え、財政の集中を求めた。

1069年、富弼からも改革への支持を得られなかった神宗は、王安石を政権の中心に置いた。地方行政で実績のあった王安石は、政治、官制、財政、軍事を組み替え、朝廷の効率を高めることで賦税負担を軽くし、国を発展させようとした。神宗はその構想に賛同し、大きな権限を委ねた。青苗法、免役法、市易法などの新法が進められ、財政の集中と貨幣化が図られた。一方、地主、商人、皇族などの利益にも関わる改革は強い反発を招き、官界では司馬光や文彦博らを含む反対勢力が生まれた。富弼や司馬光は皇帝の権力拡大を懸念し、西夏や遼との平和な均衡を保とうとした。王安石は宰相の権限で反対派を抑え、神宗も呂恵卿や曾布などの実務官僚を登用して新法を支えた。司馬光は政治の第一線から退いた後、『資治通鑑』の編纂を進めた。ほかの反対派官僚も詩文、絵画、教育などで活動した。1074年、天災が相次ぎ、新法派内部でも政策をめぐる意見が分かれると、神宗は王安石を解任した。

王安石が退いても、韓絳や呂恵卿によって新法の実施は続いた。ところが翌1075年、呂恵卿と上司の韓絳が不和となり、呂恵卿の独断的な政策決定も問題となったため、神宗は王安石を再び登用した。王安石は周辺諸国との外交交渉や交易を通じて辺境の安定を図り、軍事費を減らした。新法の実施範囲の拡大や銅銭の大量発行により財政も改善した。しかし新法派の中で権力争いが起こり、王安石は息子王雱も病で失った。神宗自身も王安石の平和外交や政権運営に不満を持つようになり、1076年に王安石は朝廷を去った。

1078年に元豊と改元した後は、神宗が改革を主導した。蔡確らの実務官僚を用い、分裂していた新法派の意見をまとめていった。官僚の人数を大幅に削減し、朝廷による管理を強めたほか、青苗法や市易法にも修正を加え、民間経済への朝廷の影響力を高めた。財政的な余裕を政策に用いる一方、王安石よりも軍事を重視した。銅銭の鋳造は治世中に増え、1080年には五百六万貫に達した。元豊年間には西夏への侵攻を計画したが、軍事行動は失敗した。敗戦を機に健康を損ない、1085年4月1日に死去した。年齢は数え年で38歳である。朱徳妃との六男趙傭が、第七代皇帝の哲宗となった。旧法派の宣仁太后が政権を掌握し、新法を廃した。陳才人との十一男趙佶も、のちに第八代皇帝の徽宗となる。改革を進めた治世は評価される一方、士大夫の党争を激しくし、政策の継承にも失敗したとの批判を受けた。南宋には、北宋滅亡の原因を神宗と王安石の改革に求める見方も生まれた。

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