HISTORICAL PERSON · 1085年没

郭煕

北宋の山水画家で、字は淳夫。神宗に登用され、書画担当技官の最高位である待詔に昇進した。雲頭皴・蟹爪樹の画法で山水を描き、李成と並ぶ「李郭派」とされる。子の郭思が山水画の画論を編纂した。

生涯
1085年没
死亡地
中華人民共和国(河南省 / 開封市)
出生地
中華人民共和国(温県)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

郭煕は、北宋の宮廷で山水画を描いた画家で、字を淳夫という。孟州温県の出身で、生年は1023年とも1020年ごろともされる。老年に至るまでの経歴はほとんど分かっていない。神宗の治世の初めごろに登用され、宮中に入ると、三司の塩鉄副使であった呉充の命令を受け、官衙、宮殿、寺院の壁画や大きな屏風を数多く制作した。山水を大画面に展開する画風は若い神宗に気に入られ、ほどなく御書院の芸学の職を与えられた。さらに数年後には、書画を担当する技官の最高位である待詔へ進んだ。

所属した御書院は翰林学士院の下部組織であり、通常の宮廷画家が籍を置く翰林図画院とは異なっていた。神宗が画家に書記官の職を与えたのは、画院の慣習に縛られることなく、その力量を発揮させるための配慮だったといわれる。皇帝は宮殿の中に郭煕の作品を収める特別な部屋を用意するほど、その絵を好んだ。作品は蘇軾、黄庭堅、王安石らにも評価された。

郭煕の絵は、近景、中景、遠景に空間を分ける、五代以来の山水画の構成を受け継いでいる。ただし木々や曲がりくねった枝、岩石や遠くの山々を通り抜ける気の表現に、強い関心を注いだ。雲が巻くように岩の表面を描く雲頭皴と、蟹の爪に似た枝を持つ蟹爪樹が、その特徴である。曲線を幾重にも組み合わせ、岩には渦を巻くような起伏を与えた。画面には人物、樹木、山を異なる大きさで配し、小さな人物を手前の下方、大きな山を遠くの上方に置いた。高さによる隔たり、奥行きによる隔たり、平面的な隔たりという三つの距離の表し方を用いた。『早春図』もこうした山水表現を示す作品である。特定の場所を一つの視点から写すことより、皇帝の治める世界の姿を絵に表すことが目指されていた。

制作に当たっては一人の師だけに頼る態度を批判し、複数の画家に学ぶとともに、自然を直接観察することを勧めた。自ら山に遊んで十分に眺めれば、山水の姿が胸中に明らかに並ぶという言葉も残している。絵画は自然界の姿や配置を再び作り出すものであると同時に、宇宙の秩序の地上での形である皇帝の秩序をたたえるものであると考えた。神宗が死去した後の活動記録は少なく、郭煕の没年も1085年とも1090年ごろともされる。支持者を失ったその技巧的な絵は、次第に士大夫たちの美意識に合わなくなっていった。

徽宗の時代には、その作品は忘れられようとしていた。鄧椿の『画継』には、宮殿から撤去された壁画や屏風が廃品として扱われたという逸話が残る。一方で、郭煕の画論は、息子の郭思が序文や注記を加えて編んだ『林泉高致』として伝わった。この書には、画家自身の自然への考え方や制作の経験が収められている。作品の多くが失われた後も、この山水画論は読まれ、後の中国画論に大きな影響を与えた。後世、構図や空間の組み立て方を李成の画風と比較され、両者の名を合わせた「李郭」という呼び方が生まれた。その系統は李郭派と呼ばれ、董源と巨然の様式と並ぶ、中国山水画の一つの代表的な流れとなった。李郭派は皇帝に認められた古典的な山水画の様式であり、宮廷では公式の規範ともなった。こうした山水表現は、二世紀にわたって宮廷の画家たちに影響を及ぼした。

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