HISTORICAL PERSON · 912年没

朱全忠

五代後梁の初代皇帝。黄巣の乱で頭角を現した後、唐に帰順して全忠の名を賜り、宣武節度使となった。のち唐を滅ぼして後梁を建てたが、晩年は行状が乱れ、息子の朱友珪に暗殺された。

生涯
912年没
死亡地
中華人民共和国(河南省 / 洛陽市)
出生地
中華人民共和国(碭山県)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

朱全忠は、五代の後梁を建てた初代皇帝である。廟号は太祖。初めの名は温といったが、黄巣の乱での戦功により唐から全忠の名を賜った。のちに唐を滅ぼして皇帝となり、名を晃と改めた。唐末の黄巣の乱で頭角を現し、続く覇権争いに勝って王朝を築いたが、晩年は行状が乱れ、最期は息子の朱友珪に殺された。

852年、宋州碭山県の午溝里で、儒学を教えて「朱五経」と称された朱誠の三男として生まれた。家は貧しく、少年のうちに父を失い、二人の兄とともに母の王氏に連れられて、親戚にあたる蕭県の富豪劉崇の家で小作として働いた。しかし畑仕事を平凡で退屈だと馬鹿にして精を出さず、武術に興味を示して棒術や拳法を独学で上達させ、「ごろつき朱三」と呼ばれたという。気性が荒く里人の多くに嫌われ、劉崇からはたびたび杖や鞭で咎められたが、劉崇の母だけは高く評価して庇ったとされる。

黄巣の乱が起こると、次兄の朱存とともに参加して頭角を現した。朱存は途中で戦死したという。880年に黄巣軍が長安を落とした後は、夏州節度使の諸葛爽を投降させ、東南方面の先鋒を任されて南陽を攻め落とすなど功を立てた。だが河中節度使王重栄の軍に何度も敗れ、黄巣に救援を求めても、左軍使孟楷に要請を握りつぶされた。軍内に形勢不利の風聞も流れたため、側近と相談して黄巣を見限り、監軍使の厳実を斬って王重栄に降った。蜀に逃れていた唐の僖宗は、この投降を聞いて「是れ天の賜うなり」と喜んだといわれる。朱温は唐の官軍として諸侯軍とともに黄巣軍を長安から追い落とし、左金吾衛大将軍・河中行営副招討使となり、汴州に拠る宣武節度使に昇進した。皇帝への忠誠を意味する「全忠」の名もこのとき賜った。

その後、同じく黄巣軍と戦った李克用と実権を争った。朱全忠は李克用に救われた恩義から盛大な宴で下手にもてなしたが、李克用は憎まれ口を叩いた。全忠は怒りを抑えて愛想よく応対し、李克用らが酔ったところを軍勢で襲った。李克用は包囲を破って城外へ逃れ、両者は不倶戴天の仇敵となった。888年には河陽で李罕之と張全義が対立し、全忠は張全義を救援して李克用の軍を破った。軍略では李克用に劣ったが、政略と謀略では勝り、唐朝の実権を握った。901年に梁王に封じられ、904年1月には昭宗に迫って洛陽へ遷都させ、8月に仮子の朱友恭と氏叔琮に命じて昭宗を殺させ、のち二人に罪を着せて誅殺した。哀帝を立て、禅譲を準備したが、長兄の朱全昱は、黄巣の一味から引き立てられた恩に背き唐を奪うのかと罵った。905年には唐の高官30余人を左遷し、白馬駅で処刑して遺体を黄河に捨てた(白馬の禍)。この事件をもって中国の貴族制は完全に崩壊したと考えられている。

907年3月、哀帝から禅譲を受けて国号を梁とし、唐は滅びた。皇帝に即位して名を晃に改め、汴州を東都、洛陽を西都とした。哀帝は908年に曹州で毒殺された。だが各地の群雄は認めず、後梁の勢力は全国350州のうち70州余り、中原にとどまった。李克用の死後に上党を攻めたが、後継者の李存勗に敗れて壊滅した。賞罰が厳しすぎて身内の反感を買い、李茂貞や王鎔への攻撃も失敗した。正妻の張氏が没すると色事はいっそう乱れ、諸子の妻を都に留めて近づけた。912年、病が重くなった全忠が仮子の博王朱友文を太子に立てようとすると、これを知った実子朱友珪が手勢500人を率いて宮中に入り、父の腹を刺して殺害し、帝位を奪った。享年61であった。

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