伝記
アブル・マアーリー・ジュワイニーは、1028年にホラーサーンのナイサーブール近郊で生まれた、スンナ派の法学者・神学者である。法学ではシャーフィイー派、神学ではアシュアリー派に属した。アブル・マアーリーはクンヤと呼ばれる呼び名で、本名はアブドゥルマリクである。父アブドゥッラー・ブン・ユースフはシャーフィイー派の著名な法学者で、伯父アブル・ハサン・アリーもハディースを教えるスーフィーであった。ジュワイニーは経済的に栄え、知的な雰囲気を持つナイサーブールで育ち、まず父から神学と法学を学んだ。学問のために遠方へ出かける必要はなかった。
ハディースやクルアーン解釈を別の師から学び、文法にも関心を持った。1047年に父が死去すると、19歳で父の後を継いで法学と神学を教え始めた。父の死後には、アシュアリー派の神学をさらに数年間学んだ。当時、この神学派はシャーフィイー法学派と密接な関係にあった一方、ハナフィー法学派とは対立していた。セルジューク朝のトゥグリル・ベグが任じた宰相クンドゥリーはハナフィー派を支持し、アシュアリー派を迫害した。1053年ごろには、ジュワイニーを含む四人のアシュアリー派学者に逮捕命令が出た。捕らえられた者や地下に潜って抵抗する者もいたが、ジュワイニーは逃亡を選んだ。
バグダードを経て、マッカとマディーナへ移り、二つの聖都で四年間を過ごした。この間、諸学を教えるとともに学び続け、多くの弟子を得た。父が学者の間で名を知られていたことや、自身が追放された立場だったことから、手厚く迎えられた。「二聖都の先生」を意味するイマーム・ハラマインという称号は、この滞在によって得たものである。1063年にトゥグリルが死去し、後継者アルプ・アルスラーンがニザームル・ムルクを宰相に据えると、アシュアリー派を取り巻く状況は変わった。新宰相は同派を保護し、ナイサーブールに学院を設け、ジュワイニーを招いた。帰郷したジュワイニーは、このニザーミーヤ学院で教壇に立った。
学院で教えたのは、イスラーム法とその基礎となる法学理論、そして神学であった。クルアーンとハディースに精通し、理屈を重んじて、聖典の文言から行動規範を論じた。先人の説をそのまま受け入れるだけではなく、シャーフィイーやアシュアリー、父の考えにも、誤りがあると判断すれば距離を置いた。法の源として、クルアーンとスンナに加え、法学者の合意と類推による推論を認めた。『ブルハーン』では法の目的という考えを示し、初学者向けの短い法学理論の教本『ワラカート』も残した。主著『信条の決定解への導きの書』では、何が解明され、何がいかに解明されうるかを明らかにしようとした。移ろう物事に心を奪われても、それを中断できる神の権能を考えるべきだと説いた。統治の理論に関する論文の多くも、学院で教えていた時期に書いたとされる。
弟子にはガザーリー、アンサーリー、イブン・アルクシャイリーらがいた。1085年に没するまで学院で教えたが、臨終の際には、神学上の論争に費やした時間を悔いたとされる。法の目的という考えはガザーリーへ引き継がれ、この弟子のスーフィズムに関する説にも、師の影響が強く見られる。『ワラカート』は後にイムリーティーによって暗記しやすい韻文に改められ、学校での学習に用いられ続けた。
同じ年に亡くなった人物
- ヨアンネス・イタロス (1085年没)
- ダーニシュマンド・ガーズィー (1085年没)
- 神宗 (宋) (1085年没)
- 程顥 (1085年没)
- 郭煕 (1085年没)
同じ地域に関係する人物
- イブラーヒーム (アフシャール朝) (1749年没)
- アリー・リダー (818年没)
- アッバース・ミールザー (1833年没)
- ウマル・ハイヤーム (1131年没)
- フェルドウスィー (1025年没)