HISTORICAL PERSON · 197年没

曹昂

後漢末期の武将。曹操の長男で、張繡の奇襲を受けた際に自らの馬を父に差し出して逃がし、自身は典韋らとともに戦死した。

生涯
197年没
死亡地
中華人民共和国(河南省 / 宛城区)
出生地
—
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

曹昂(そうこう)は、後漢末期の武将で、字は子脩という。曹操の長男であり、197年に張繡との戦いで戦死した。生年は不詳とされ、177年、175年とする説もある。父の曹操は、のちに魏の基礎を築いた群雄である。同母の弟に曹鑠、同母の姉妹に清河長公主(夏侯楙の夫人)がおり、異母弟には曹丕、曹彰、曹植、曹彪、曹沖、曹均らがいる。

生母は曹操の側室の劉夫人であったが、早くに亡くなったため、曹昂は曹操の正室である丁夫人に育てられた。丁夫人は曹昂を実の子のように扱ったという。幼いころや若いころの事跡は史書にほとんど記されておらず、成人したころ、おおよそ19歳または20歳で孝廉に推挙されたことが知られる程度である。

197年、曹昂は父に従って、荊州の張繡を討つ遠征に加わった。張繡は、現在の河南省南陽市にあたる宛を拠点とする群雄で、曹操の侵攻を知るとただちに降伏した。曹操は喜び、張繡らのために宴を開いた。曹操が宛に10日あまり滞在していたころ、曹操は、張繡の族父である張済の未亡人と関係をもった。これを知った張繡は激怒し、曹操は密かに張繡の殺害を計画した。だが張繡はこれに気づいて先手を打ち、宛にいた曹操の陣営に不意の攻撃をしかけた。曹操は完全に不意をつかれ、右腕に流れ矢を受け、愛馬の絶影も首と脚に傷を負った。この件は『三国志』魏書武帝紀の注に引く『世語』に見える。曹昂は、自らの馬を差し出して父を逃がしたと伝えられる。曹昂は馬に乗ることができなかったともいわれ、この犠牲によって曹操は宛から無事に脱出できたとされる。一方の曹昂は張繡軍の攻撃を受け、曹安民や典韋らとともに戦死した。20余歳であったとされる。伝承では、矢を何本も浴びて倒れたともいう。曹操の生涯がよく知られているのに比べ、曹昂その人についてはほとんど分かっていない。遺体は見つからなかったという。

曹昂の死を知った丁夫人は、しばしば泣き、曹操が曹昂を死なせたのだと責めて恨んだ。やがて自ら離別して実家に戻った。曹操は怒ったとも、何度も深く謝罪したともいわれ、迎えに行こうとしたが、丁夫人は口もきかず、二度と曹操のもとに戻らなかった。曹操が丁夫人に会いに行ったのは200年ごろとされるが、二人は正式に離縁したという。のちに丁夫人は亡くなり、許県の南部に葬られた。曹操は臨終のとき、もし霊魂があって、あの世で子脩に会えたなら、子脩から「父上、私の母上はどうなさいましたか」と尋ねられたとき、何と答えればよいだろうかと述べたという。

曹操の子の曹丕は、221年に後漢を終わらせて魏を建てると、曹昂に豊悼公の諡を贈った。3年後には王に追封されて豊悼王となり、229年、曹丕の子の曹叡の代に豊愍王と改められた。曹昂には子がなかったため、222年に甥の曹琬(曹均の子)がその後継とされ、中都公、のち長子公に封じられた。254年、曹芳の代に曹琬は豊王に進み、没後は豊恭王と諡され、子の曹廉が継いだ。曹琬の封国の課税対象の戸数は、曹髦、曹奐の代を通じて増え続け、2,700戸に達したという。一方で曹丕は、即位後に、兄の子脩が生きていても限界があっただろうが、弟の倉舒(曹沖)が生きていたなら自分は天下を治められなかっただろうと語り、曹昂を低く評価したという。なお、安陽の曹操高陵で見つかった、衣服はあるが遺骨のない墓は、遺体が見つからなかった曹昂のものかもしれないといわれる。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物