HISTORICAL PERSON · 297年没

陳寿

三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚で『三国志』の著者。譙周に学び、張華らに高く評価された。魏書・蜀書・呉書に分けて三国を対等に扱い、死後に勅命で筆写され事実上公認の史書となった。

生涯
297年没
死亡地
中華人民共和国(河南省 / 洛陽市)
出生地
蜀漢(巴西郡)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

陳寿(ちん じゅ、233年〜297年)は、中国の三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚で、字は承祚。『三国志』の著者として知られる。甥に陳符・陳蒞・陳階がいる。生涯を伝える『晋書』と『華陽国志』には、たがいに矛盾する記述も多い。

出自は益州巴西郡安漢県の名門で、陳氏・趙氏・閻氏・范氏を合わせた「安漢四姓」の一つ、巴西陳氏である。譙周のもとで儒学と史学を修め、蜀漢に仕えた。経歴には諸説あるが、衛将軍諸葛瞻の主簿や、宮中文庫の管理者である東観秘書郎をつとめたとされる。『晋書』によれば、権勢をふるった宦官の黄皓に従わなかったため、左遷や降格をたびたび受けた。また父の服喪中に病気で下女に薬を調合させたことが知られ、不孝として譴責された。譙周は陳寿に、学問の才で名を揚げるが評判を損なうこともあろうから深く慎むように、と忠告したという。

蜀漢が滅びると、王崇・寿良・李密・李驤・杜烈らとともに都に入り、六人は益州・梁州を代表する俊才とされた。しばらく仕官できなかったが、同門でかつての同僚である羅憲に孝廉に挙げられて西晋に仕えた。佐著作郎に始まり著作郎をつとめ、杜預と張華の推挙で治書侍御史・兼中書侍郎・領著作郎と進んだ。益州の地方史『益部耆旧伝』『益部耆旧雑記』や諸葛亮の文書集『諸葛亮集』を編み、張華・杜預・荀勗に高く評価された。『古国志』も著している。晋による三国統一の後に『三国志』を完成させると、人々は陳寿に良史の才があると褒め、張華は『晋書』を君に託したいとまで称賛した。

のちに張華が陳寿を中書郎に挙げようとすると、張華と対立していた荀勗が疎んじ、官吏に誣告させて外地の長広太守に左遷させた。陳寿は母の病気を理由に辞退し、杜預の推薦で御史治書に任じられたが、母(『華陽国志』では継母)が死去して離職した。遺言どおり母を洛陽に葬ったところ、郷里に葬る礼制に反するとして再び不孝の非難を受けた。都に戻って皇太子司馬遹の太子中庶子とされたが、『晋書』では拝命しなかったとされ、『華陽国志』では兼ねたとある。元康7年(297年)、65歳で没した。同門の先輩だった李驤とは、蜀漢の時代には仲が良かったが、晋の世になって些細なことからこじれ、互いに誹謗しあって識者に批難されたともいう。

『三国志』は私撰だったが、陳寿の死後、范頵の上表を受けて筆写するよう勅命が下り、事実上公認の史書となり、唐の太宗の時代に正史と認定された。夏侯湛は『三国志』を見て、自分が書いていた『魏書』を破り捨てたという。魏を正統としつつも、表題や本文で魏・蜀・呉を対等に分けて扱った点が特色で、蜀に仕えた経歴から蜀漢を比較的よく扱う姿勢も見える。一方、『晋書』には、丁儀・丁廙の子孫に米千石を求めて断られたため伝を立てなかったとする話や、諸葛亮父子への私怨から低く書いたとする話が載り、劉知幾は陳寿を激しく糾弾した。しかしこれらは伝聞にすぎないとの反論も多く、後世には事実ではないとする見方が多い。南斉の劉勰は、他の三国時代の史書をもったいぶっているか空疎だと非難する一方、陳寿の『三国志』のみは文章に洞察と知識が行き渡っており、荀勗と張華が司馬遷・班固に比したのも妄りな称誉ではないと評した。西晋におもねる記述があるとの指摘もあり、高貴郷公殺害の経緯は詳しく書かれていないと指摘される。陳寿の『三国志』以外の著作は現存していない。

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