HISTORICAL PERSON · 208年没

孔融

後漢末の政治家・儒学者で、孔子20世の孫。幼くして英明で知られ、北海国相として黄巾の乱で荒れた地域を支えた。建安の七子の一人に挙げられる文人でもある。曹操と対立し、208年に妻子ともに処刑された。

生涯
208年没
死亡地
中華人民共和国(河南省 / 許昌市)
出生地
中華人民共和国(曲阜市)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

孔融は、中国後漢末期の政治家・儒学者である。字は文挙。永興元年(153年)に生まれ、建安13年(208年)に没した。孔子から数えて20世の孫にあたり、孔子と同じ青州魯国曲阜県の出身である。父は孔宙、兄は孔褒。若いころから英明で知られ、学問を好み、あらゆる書物を読みあさった博識の人物だった。

10歳あまりのとき、名声の高い李膺に面会しようとした。李膺は当代の優れた人物か先祖代々の交際のある家柄の者としか会わなかったため、孔融は門番に「私の先祖は李君の先祖と親しかった」と告げて通された。李膺に尋ねられると、孔子と李老君(老子)が徳を同じくする師友だったと答えて感心させた。同席した高官の陳煒が「子供のときに賢くても、大人になって賢いとは限らない」と言うと、孔融は「では貴方は子供のときとても賢かったのですね」と言い返し、李膺は大笑いして将来を高く評価した。13歳で父を亡くしたときは、悲しみのあまり痩せ細って人に支えられねば立てないほどになり、人々はその孝心に感じ入ったという。16歳のとき、宦官の侯覧に恨まれた張倹が兄の孔褒を頼って逃げ込んできた。孔褒は留守で、張倹は少年の孔融を侮って事情を話さなかったが、孔融は引きとめてかくまった。事が露見すると、孔融も孔褒も母も、自分こそ罪に問われるべきだと言い張り、役所は朝廷に判断を仰いだ。結局、兄の孔褒が死刑となり、この件で孔融の名は広く知られるようになった。

その後は朝廷に仕え、後漢が大いに乱れた時期に北海国の相を六年間務めた。劉備の上表によって青州刺史ともなり、黄巾の乱で荒れた山東の地を支えた。王修らを推挙し、儒学の普及に努め、大学者の鄭玄には子孫としての礼をとり、その名を冠した鄭公郷を設けた。ただし、この治績には、政務が形式的で実行力に欠けたとか、鄭玄のような学者を表向き礼遇しながら国事は共に議さなかったといった厳しい評も残り、評価は両極端である。初平2年(192年)ごろ、黄巾軍の討伐で都昌へ進んだところを管亥率いる黄巾軍に包囲された。かつて母の世話をしてもらった恩に報いようと駆けつけた太史慈が包囲を突破して平原相の劉備に救援を求め、劉備が精鋭三千を率いて来援して黄巾軍は潰走した。やがて袁紹の長子袁譚に攻められて許へ逃れ、将作大匠・少府・太中大夫を歴任した。朝議の質疑ではいつも中心になって発言し、文人サロンの中心的存在となって、後に「建安の七子」の一人に数えられた。

直言を憚らない孔融は、実権を握る曹操と事あるごとに対立した。楊彪の処刑を諫めたような正論もあったが、当てつけがましい理屈も多く、曹操は日ごろから孔融を嫌っていたとされる。建安13年(208年)、曹操が南方遠征を目前にしたころ、孫権の使者に曹操を誹謗する発言をしたという罪で逮捕され、妻子とともに処刑された。享年56。処刑の際、9歳の男子と7歳の女子は幼いために他家へ預けられていたが、碁を打つ最中に父の逮捕を知っても動じず、「巣が壊されて卵だけが割れずに残ることがあるものか」と答えた。これを伝え聞いた曹操は二人も殺し、二人は自ら首を差し伸べて斬られたという。孔子の子孫を殺したことは、後々まで曹操が非難される理由の一つとなった。

曹丕は孔融の詩文を深く愛し、揚雄・班固にも劣らないと嘆じ、文章を届け出る者には黄金や絹を与えた。孔融は詩・頌・碑文・議論文・上奏・檄文など、全部で二十五篇を著した。人の善行を聞けば我がことのように喜び、賢士を推薦して多くの者を出世させたとも評されている。『三国志演義』にも登場し、史実と同様に曹操を厳しく批判する。

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