伝記
オフェラス(オペラスとも)は、古代マケドニアの軍人・政治家である。ペラの生まれで、父の名はセイレノスという。活動の時期は紀元前326年ごろから308年ごろとされ、アレクサンドロス大王に仕えたのち、プトレマイオス1世のもとでキュレネを治めた。
最初に名が見えるのは紀元前326年で、インダス川に展開したアレクサンドロスの艦隊で三段櫂船を率いる指揮官を務めていた。それ以前の経歴は分かっていない。大王の死後はプトレマイオス1世に従い、紀元前322年、大軍を率いて派遣された。キュレネ地方で起きていた内戦に介入するためである。オフェラスは、テュブロンに味方したキュレネ人を破り、テュブロン自身を捕らえてテウケイラの人々に引き渡した。テュブロンは拷問のうえ処刑されたという。こうしてプトレマイオス朝のキュレネとその周辺への支配が確立し、オフェラスはそのまま総督として残った。当時成立した親プトレマイオスの体制の性格は、石に刻まれた長大な憲法文書からうかがえるが、その年代は今も議論が分かれる。
その後の経歴は史料に乏しく、はっきりしない部分が多い。ユスティヌスは彼を「キュレネの王」と呼び、スダ辞典は「キュレネの支配者」と記す。アテナイのミルティアデスの娘エウリュディケを妻とし、彼女との間にミルティアデスという息子をもうけた。アテナイとも友好的な関係を保っていたらしい。紀元前313年のキュレネの反乱は、プトレマイオスが速やかに鎮圧したが、その記述にオフェラスの名は現れない。一説には、反乱の鎮圧後にキュレネの人々の不満につけ込み、独立国として統治を始めたともいう。いずれにせよ、次に名が出るのは紀元前309年から308年にかけてである。
そのころ、北アフリカでカルタゴ人と戦っていたシラクサのアガトクレスが、同盟を求める使者をキュレネへ送ってきた。アガトクレスは、共同で得たアフリカでの征服地をすべてオフェラスに譲り、自分はシチリアだけを手元に残すと約束した。オフェラスはこれに応じ、妻エウリュディケの故郷で投票権を失って不満を抱いていた市民たちから強力な軍勢を集めた。行く手には自然の障害が多かったが、2カ月以上に及ぶ苦しい行軍の末にカルタゴの領域へたどり着いた。両軍は近くに陣を張り、オフェラスはアガトクレスから友情を尽くして迎えられ、アガトクレスを養子にするほどだったという。妻がアテナイの名将ミルティアデスの子孫だったことから、多くのアテナイ人が遠征に加わったと伝えられる。
しかし同盟は長く続かなかった。紀元前308年11月、兵の多くが食糧や飼料を求めて散っていたとき、アガトクレスは自軍を呼び集め、オフェラスが自分に陰謀を企てたと非難して、キュレネ軍の陣営を攻めた。別の話では、オフェラスが少年を好むと知ったアガトクレスが、自分の息子ヘラクレイデスを人質かつ気をそらす餌として送り、数日は誘いを拒むよう言い含めていたという。不意を突かれて手勢も足りなかったオフェラスは、戦って死んだ。オロシウスは、彼がアガトクレスの甘言と策略にだまされて殺されたと記している。指導者を失った軍はアガトクレスの軍に吸収され、アガトクレスはこれでカルタゴ軍を破るだけの兵力を得た。オフェラスの死後、キュレネはプトレマイオスの直接支配下に置かれた。紀元前305年ごろにプトレマイオスが王を称した直後、キュレネ人は反乱を起こした。プトレマイオスの義理の息子マガスが紀元前300年ごろにキュレネを再征服して総督となり、のちにプトレマイオス2世から独立して紀元前276年に王となった。
同じ年に亡くなった人物
- アルケタス2世 (エピロス王) (紀元前307年没)
- クレオパトラ (紀元前307)
- 武王 (秦) (紀元前307年没)
同じ地域に関係する人物
- Moufdi Zakaria (1977年没)
- ニャシンベ・エヤデマ (2005年没)
- ハスドルバル・ギスコ (紀元前202年没)
- ベジ・カイドセブシ (2019年没)
- Leo Nardus (1955年没)