伝記
王允は、中国後漢末期の政治家である。字は子師。137年に生まれ、192年7月4日に没した。并州太原郡祁県の人で、呂布と謀って董卓を殺害したが、董卓の旧臣である李傕らの逆襲を受けて殺された。
若いころから大きな節義を好み、功績を立てようという志を持っていた。朝夕に騎射を練習し、いつも経伝を読んでいたという。同郷の名儒である郭泰から、一日に千里を走る「王佐の才」の持ち主と評され、交友を持つようになった。19歳で郡の役人となり、悪行を重ねていた趙津を捕らえて処刑した。これを恨んだ趙津の兄弟が宦官に賄賂を送ったため、事実を曲げて報告された桓帝は、王允の上司である太原太守の劉瓚を投獄して処刑した。王允は劉瓚の棺を郷里の平原まで運び、親の喪と同じ3年間、喪に服してから復職した。のちに新任の太守の王球が能力も名声もない者を登用したのを諫めると、王球に疎まれて投獄され殺されそうになったが、刺史に救い出されてその部下となり、名声が一躍高まったという。
184年の黄巾の乱では豫州刺史となり、荀爽・孔融らを幕僚に迎えて黄巾軍を破った。乱の終結後、十常侍の張譲が黄巾軍と通じていたと告発したが、張譲が謝ると霊帝が許してしまい、王允は逆恨みを受けて投獄された。死刑になるところを、多数の助命嘆願で救われた。霊帝の死後は何進に招かれて河南尹となり、少帝弁の即位で尚書令に任じられた。何進が宦官に殺されて董卓が実権を握ると、190年に董卓から司徒に選ばれて政務を執った。
董卓は少帝を殺し、洛陽を破壊して長安への遷都を強行し、張温を袁術との内通者だと誣告して鞭で打ち殺させるなど、暴政を重ねた。王允は帝位を奪う意思も見て取り、友人の黄琬や部下の士孫瑞と暗殺を計画した。引き受けたのは、同じ并州出身で董卓の養子となっていた呂布である。呂布は董卓に手槍を投げつけられたことがあり、董卓の侍女と密通していたのが露見することも恐れていた。その相談を受けた王允は計画を打ち明けて仲間に引き入れ、192年4月、参内した董卓を呂布に殺させた。王允は呂布を奮威将軍、温侯とし、董卓の一族を皆殺しにして、董卓派の官僚を粛清した。その中には名高い文人の蔡邕もいた。
しかし王允は、旧董卓軍の涼州兵を特赦すべきだという呂布らの提案を「年に二回の特赦は慣行に背く」と退けて追放を決め、董卓の財産を兵に分け与える案も拒んだ。呂布との仲も次第に悪くなったという。この融通の利かない対応が、のちに自らを追い込んだ。同年6月、李傕・郭汜らが賈詡の助言で長安に攻め入り、胡軫・楊定の裏切りもあって、王允・呂布らは敗れた。呂布は撤退のとき王允を誘ったが、王允は献帝を見捨てず長安に残り、逮捕されて処刑された。享年57。妻子も殺されて首をさらされ、長安の人々は老若男女がみな涙を流したという。のちに献帝は忠節を思って葬儀をやり直し、司徒の印綬を郷里の郡へ送った。孫の王黒は安楽亭侯に封じられ、甥の王淩は魏の将軍となった。范曄は、王允が董卓を推し立てて権力を分けたのは隙をうかがうためで、知る者はその本意が忠誠にあったと知っていたと評している。同じ伝の賛は、難を図って心を隠し節を貫いたが、残党を残すことになったと述べる。小説『三国志演義』では、養女の貂蝉を使って董卓と呂布を仲違いさせたことになっており、これは「連環の計」と呼ばれる。また、曹操に七星宝刀を董卓暗殺のために渡したことにもなっている。