HISTORICAL PERSON · 912年没

レオーン6世

東ローマ帝国マケドニア王朝の第2代皇帝で、賢者とあだ名された。総督の書やバシリカ法典などの法律書を編纂させ、典礼詩も残した。対外ではブルガリアやイスラーム艦隊に敗れ、四婚問題で教会と対立した。

生涯
912年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / コンスタンティノープル)
出生地
トルコ共和国(コンスタンティノープル)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

レオーン6世は、東ローマ帝国マケドニア王朝の第2代皇帝(在位886年から912年)である。「賢者」を意味するソフォス、あるいは「哲学者」を意味するフィロソフォスというあだ名で呼ばれる。866年9月1日、または9月19日に生まれた。母は王朝の開祖バシレイオス1世の二人目の妻エウドキア・インゲリナであったが、彼女は867年にバシレイオス1世が暗殺したミカエル3世の愛人でもあった。このため、レオーンとその弟ステファノスはミカエル3世の子である可能性を否定できず、そうした噂は誕生直後から広く流れていたらしい。兄コンスタンティノスは、バシレイオス1世の最初の妻マリアの子である。

870年に共同皇帝として戴冠し、872年頃には、一時幽閉されていたフォティオスが召されて、バシレイオス1世の息子たちの家庭教師となった。本来、権力の座に就く予定ではなかったが、879年に後継者の兄が没したため、跡継ぎとなった。882年にテオファノと結婚したものの、直後に母が没すると、父との関係は急速に悪化した。ポルトガル語版によれば、彼は結婚に不満で、ゾエ・ザウツァイナを愛人にした。883年には謀反の疑いをかけられて後継者の地位を奪われ、886年7月まで3年あまり宮殿の一室に幽閉された。幽閉と復権の理由に定説はない。復権の直後に父が崩御し、886年に帝位を継いだ。ポルトガル語版は、父の死を狩りの事故とする。

即位すると、彼はフォティオスを更迭し、19歳の弟ステファノスを総主教に任じた。治世の前半は、復帰に尽力したステュリアノス・ザウツェスが実権を握ったとされる。彼はゾエの父で、レオーンは彼に「皇帝の父」の意味の地位を与えた。899年にステュリアノスが没し、一門が陰謀を通報した宦官サモナスに実権が移った。サモナスは将軍アンドロニコス・ドゥークスと対立し、アンドロニコスはバグダードへ亡命した。

内政と文化では功績を残した。フォティオスの教えで多方面の学識を身につけ、多くの典礼詩、世俗詩、演説を残した。首都の商工業者の組合に関する法令集『総督の書』を編纂させ、ユスティニアヌス1世の『ローマ法大全』をギリシア語に改めた『バシリカ法典』も完成させた。一方、対外関係では失敗も多かった。893年、あるいは894年にブルガリアのシメオン1世と戦い、マジャル人と結んで挟撃したが、896年にブルガロフュゴンで敗れ、毎年の貢納を条件に和平を結んだ。西方でも888年にミラッツォ沖でイスラーム艦隊に敗れ、902年にはシチリア島最後の拠点タオルミナが落ち、904年には第二の都市テッサロニキが襲われた。907年にはキエフ・ルーシの艦隊がコンスタンティノポリスを攻撃した。

長く男子に恵まれなかった彼は、結婚の問題でも教会と争った。最初の妻テオファノは897年頃に病没し、898年にゾエ・ザウツァイナと結婚したが、彼女も翌年に没した。三度目の妃エウドキア・バイアナを迎えると、自ら三度目の結婚を禁じる法を出していたため教会が反対した。901年に彼女が亡くなり、四番目の妃ゾエ・カルボノプシナとの間に、905年、のちのコンスタンティノス7世が生まれた。彼が正式な結婚に踏み切ると、総主教ニコラオス1世は態度を硬化させ、906年のクリスマスと翌年の神現祭に、皇帝の大聖堂への立ち入りを禁じた。皇帝はニコラオスを解任して修道士エウテュミオスを後任としたが、そのため両派の対立を招いた。912年5月11日に病没し、まだ幼い息子に代わって、共同皇帝のアレクサンドロスが後継者となった。

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