HISTORICAL PERSON · 226年没

曹丕

魏の初代皇帝。曹植との後継争いを経て太子となり、曹操の死後に魏王を継いで献帝から禅譲を受けた。陳羣の進言で九品官人法を定め、三曹の一人で著書に典論があるが、呉への親征は失敗が続いた。

生涯
226年没
死亡地
中華人民共和国(河南省 / 洛陽市)
出生地
中華人民共和国(亳州市)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

曹丕は、三国時代の魏の初代皇帝である。字は子桓。父の曹操の勢力を受け継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けて王朝を開いた。政治家であると同時に、曹操・曹植と並んで三曹と称される優れた文学者でもあり、著書に『典論』がある。226年に40歳で没した。

曹操と卞氏の長男として生まれ、8歳で巧みに文章を書き、騎射や剣術を得意とした。初めは庶子の一人で、実質は三男にあたり、11歳で父の軍中に従った。建安2年(197年)、正室の丁氏が養子として育てていた異母兄の曹昂が宛城の戦いで戦死すると、丁氏は曹操と離別し、次兄の曹鑠も間もなく病死した。側室にすぎなかった生母の卞氏が正室に迎えられ、以後、曹丕は嫡子として扱われた。曹操のもとでは五官中郎将、副丞相となり、父の不在を守った。通説では建安21年から22年にかけて弟の曹植と激しい後継争いをしたといわれ、曹操は迷ったが、賈詡の皮肉が決め手となって曹丕に定まり、217年に太子に正式に指名された。建安24年には魏諷の反乱が起こったが、陳禕の密告で露見し、魏諷は処刑された。

建安25年(220年)に曹操が没すると、曹丕は魏王となり丞相の職を継いだ。劉備が弔問の使者を送ってくると、曹丕は曹操の死に乗じて好を通じようとするものと嫌い、使者を殺すよう荊州刺史に命じたという。一方、私兵四千家余りを率いて帰順した孟達を喜んで厚遇し、批判する臣下に「私が彼に異心のないことを保証する」と述べ、三郡を合わせた新城郡の太守に任じた。やがて献帝に禅譲を迫って皇帝に即位した。形の上では家臣たちが禅譲を上奏し、献帝の申し出を曹丕が辞退して、家臣に重ねて促されるという手順を踏み、二度辞退したのちに即位した。これで後漢は滅び、名実ともに三国時代となった。曹丕は内政の諸制度を整え、陳羣の進言で定められた九品官人法は後世に長く受け継がれた。

軍事面では呉への出兵を重ねたが、勝てなかった。夷陵の戦い直後には劉曄の進言を退け、30万余の軍で呉の背後を攻め、自らも宛に進んで指揮したが、江陵の包囲は半年に及んでも守る朱然を破れず、疫病も流行して退却した。黄初5年(224年)には10万余の親征軍で広陵へ出たが、徐盛の築いた偽の城壁と増水した長江に驚き、船団も大波で被害を受けて敗走した。黄初6年にも蔣済・鮑勛の忠告を聞かずに広陵へ向かい、鮑勛を左遷した。この年は寒さで長江が凍り、曹丕は「天は南北を区切ろうとするのか」と歎じ、龍舟を動かせず撤退した。孫韶が500人の決死隊で夜襲をかけ、魏軍は敗走して乗り物や輜重も奪われた。

黄初7年(226年)5月、病に倒れ、翌日に嘉福殿で崩御した。臨終に司馬懿・曹真・陳羣・曹休に皇太子の曹叡を託した。曹丕の統治は王権を重んじ、曹植をはじめ兄弟を僻地へ遠ざけて転封を繰り返し、藩屏の力を弱めたことで知られる。司馬懿の重用が後の司馬氏の台頭を招いたとも指摘される。功臣の曹洪には、かつて借財を断られた恨みから罪を着せて殺そうとし、卞太后の取り成しで死罪を免れたものの、所領と爵位を削った。曹丕は撃剣の使い手でもあり、宴席で鄧展と議論の末にさとうきびを武器に打ち合い、勝ったという逸話がある。文化面では『典論』で「文章は経国の大業にして、不朽の盛事なり」と述べ、最古の本格的な類書とされる『皇覧』を編んだ。『三国志』の撰者である陳寿は、文学の才を認めつつも、徳と度量の足りなさを婉曲に示している。

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