伝記
赧王は、周朝の第37代の王であり、周王朝の最後の王とされる人物である。慎靚王の子で、名は姫延とされ、周隠王とも呼ばれる。紀元前314年に洛邑で即位した。先代の慎靚王は在位6年であった。在位期間は58年とも59年ともいわれ、周朝における最長在位の君主であった。「赧」という字には、顔を赤らめて恥じ入るという意味がある。
このころの周王室はすでに衰え切っており、王の影響力はわずかに王畿、現在の洛陽付近に限られていた。王室そのものも、桓公掲を始祖とする西周公と、恵公班を始祖とする東周君の勢力に分かれていた。赧王は西周の武公を頼り、西周の河南、すなわち王城に遷都した。祖父の顕王の時代から秦の勢力は急速に伸びており、さまざまな政策を試みても周の勢力は挽回できなかった。王には行政や立法の力はほとんどなく、役割は宗教的なものに縮まっていた。天子は一人しかおらず、国全体にかかわる祭祀は王にしか行えなかったからである。祭祀は主に豊作を願うために行われたが、正統な君主にしか行えない祭祀も多く、そのため王には大きな宗教的意義があった。ただし、諸侯からの貢ぎ物や敬意はもう受けられなくなっていた。
それでも、血筋と王という地位の重みによって、また覇者という称号が消えたのちも王が国々の序列の頂点にあり続けたことによって、王は戦国の外交の場でなお一定の影響力を持ったとされる。韓から失った土地を取り戻す計画を側近とともに練ったが、情勢のために実行されなかった。紀元前307年に秦が韓の宜陽を攻めると、赧王は宜陽を救うために出兵した。同じ年、秦が西周を攻めたとき、楚が防衛に動いたものの、楚には王の領地を併合する思惑があったという。そこで蘇代が、秦と結んだ王を罰するより周と親しくするほうが楚の得になると説き、懐王は併合を思いとどまった。
紀元前281年には、楚の頃襄王が韓・魏と同盟し、洛邑の周王の統治を終わらせようと企てた。これを知った赧王は、近親の武公を送り、楚の重臣昭子を説得させた。天子がいなくなれば楚の国も天下も乱れるだけだ、という論であり、頃襄王は計画を取りやめた。秦王に他国の意図や軍の動きを知らせ、秦とともに楚や韓に対する駆け引きを進めることで、秦軍が自国の領内を通らないようにしようとしたともされる。分裂を誘う策も用いて、あるときは秦に付き、あるときは秦に逆らいながら、王朝の再興を図ったと伝えられる。しかしこうした努力は、王朝の崩壊を防ぐには至らなかった。
紀元前256年、秦の将軍摎の攻撃を受け、西周の文公が領土を秦に献上した。赧王は秦の保護下に入り、まもなく崩御した。ほかに、王が最後に軍事的な抵抗を試みて敗れ、都が占領されて王室の宝物が秦へ送られたとも伝えられる。秦は九鼎を移し、王畿を占拠して、八百年以上続いた周は滅びた。この王の死後、周の王は立たなくなり、王朝は事実上終わったとされる。秦の宮廷では、周はなお役に立つとして外交の継続を望む者や、天子を討つ結果を恐れる者もいて、侵攻は全員に歓迎されたわけではなかったという。赧王の後継として恵王という人物が挙げられることもあるが、実在したかは定かでない。子孫の有無も不詳である。周に代わって秦が天下を握る流れは、この王の代で決定的になった。周王朝が名実ともに終わったのは、紀元前221年に秦が天下を統一し、戦国時代が終わったときだとされる。