伝記
ルドルフ1世は、859年に生まれ912年10月25日に没した、ブルグント王(在位888年〜912年)である。高ブルグント(上ブルグント、トランスジュラ・ブルグントとも呼ばれる)の最初の王とされ、ブルグント系ヴェルフ家の出身であった。父はオセール伯コンラート2世で、母はヴァルドラーダである。
父はトランスジュラ・ブルグントの辺境伯でもあり、ルドルフは父の領地と称号を受け継いだ。872年にはすでにヴァレーのサン・モーリス修道院の在俗修道院長として、その運営に関わる立場にあったとされる。876年には父の領土を継いで辺境伯の称号を得たとも伝えられる。こうして現在の西スイスとフランシュ・コンテにあたる高ブルグントで、最も有力な貴族となった。皇帝カール3世(肥満王)から、ヴォー伯領にある所領を与えられたことも知られている。
888年、カール3世が廃位され、翌年1月に世を去ると、高ブルグントの貴族と高位聖職者たちがサン・モーリスに集まり、ルドルフを王に推戴した。その領域は、現在のロマンド・スイスと、ブザンソン大司教区の一部であるサヴォワ、ヴァレー、ジュラ、フランシュ・コンテにおよんだ。さらに同じ888年の春には、トゥールで司教アルナルドによってロタリンギアの王としても戴冠したとされる。この推戴を根拠に、ルドルフはロタリンギア全域、すなわちアルザスとロレーヌのほぼ全域を要求した。
しかし東フランク王となったアルヌルフがこれに異を唱え、ルドルフにロタリンギアの要求を放棄させた。その代わりに、アルヌルフはルドルフをブルグント王として認めた。それでも両者の敵対は、894年まで断続的に続いたとされる。
一方、近隣のボゾン家との関係は良好であった。姉妹のアーデルハイトは、887年か888年にブルゴーニュ公リシャール正義公と結婚した。ルドルフ自身は、プロヴァンス王ボゾの娘ウィラと結婚した。子には、王位を継いだルドルフ2世、トゥールガウ伯となったルートヴィヒ、プロヴァンス王ルイ3世盲目王の妃となった娘アーデルハイト、トスカーナ辺境伯ボソの妃となった娘ウィラらがいる。912年にルドルフ1世が没すると、王位は息子のルドルフ2世が継いだ。寡婦となったウィラは、同じ912年にユーグ・ダルルと再婚した。ユーグは、のちにイタリア王となる人物である。
同じ年に亡くなった人物
- オットー1世 (ザクセン公) (912年没)
- アブド・アッラー (後ウマイヤ朝) (912年没)
- アフマド・ブン・ユースフ・バグダーディー (912年)
- ノトケル・バルブルス (912年)
- レオーン6世 (912年没)
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