伝記
ティモテオスは、古代ギリシアのアテナイの政治家であり将軍である。将軍コノンの子で、第二次アテナイ同盟においてアテナイを優位に立たせ、帝国的な野心を復活させようとした人物として知られる。弁論家イソクラテスは、ティモテオスを同時代の指揮官たちよりも優れ、良い将軍に必要な資質と能力をすべて備えていたと考えた。
紀元前378年から紀元前356年にかけて、彼はたびたび将軍として指揮をとった。当時はアテナイがテバイと組んでスパルタと戦い、デロス同盟の復活と制海権の回復がアテナイの目標だった。紀元前375年のボイオティア戦争では艦隊を率いてペロポネソス半島を一周し、スパルタに対してアテナイの力を誇示した。このときケファレニア島をアテナイ側につかせた。紀元前373年にはスパルタに包囲されたケルキラの救援艦隊を任されたが、船の人員が足りず、補うためエーゲ海を巡航した。この遅れにアテナイ人は憤り、彼を裁判にかけた。しかしフェライの僭主イアソンとモロッソイ人の王アルケタス1世が自らアテナイに出向いて弁護し、無罪となった。無罪になると彼は艦隊を率いて出航し、ケルキラを占領して、アカルナニアのアリュジア沖でスパルタ軍を海戦で破った。ところが自分の資産をアテナイの艦隊の整備に使っていたため手元の金は乏しく、アテナイを去ってペルシア王に傭兵として仕えた。
アテナイに戻った紀元前366年、彼はフリュギアの総督アリオバルザネスを支援するよう派遣された。しかし総督がペルシアに公然と反旗を翻していると分かると、指示に従って援助を控え、代わりにペルシアの守備隊が駐留していたサモス島へ軍を向けた。十か月に及ぶ包囲の末、紀元前366年から紀元前365年にかけてこれを落とした。さらにセストス、クリトテ、トロネ、ポティダイア、メトネ、ピュドナなど多くの都市を攻略したが、アンフィポリスの攻略は二度とも失敗した。この時期には、銀行家パシオンの息子アポロドロスが、父の貸した金の返還を求めて彼を訴えた。原告側の弁論は現存し、デモステネス作とされる。弁論は、彼が父から受け継いだ大きな財産を使い果たした経緯と、公のための出費によって追い込まれた苦境を伝えている。紀元前358年か紀元前357年には、彼の熱心な訴えに応じてアテナイ軍がエウボイア島へ渡り、三日でテバイ勢を追い出した。
同盟市戦争では、イフィクラテス、その子メネステウス、カレスとともに反乱の鎮圧に派遣された。敵味方の艦隊はヘレスポントスで互いを見つけたが、強風が吹いていたため、イフィクラテスとティモテオスは交戦を避けると決めた。ところがカレスは同僚の忠告を聞かずに戦い、多くの船を失った。カレスは戦後の報告で二人を激しく非難し、アテナイ人は二人を裁判にかけた。告発者はカレスとアリストフォンである。敵の少なかったイフィクラテスは無罪となったが、傲慢だと思われて常に嫌われていたティモテオスは重罰金を科された。払えない彼はカルキスに退き、まもなく死んだ。後にアテナイ人は悔やみ、息子コノンに引き継がれた罰金の大部分を免除した。彼はケラメイコスに葬られ、アゴラとアクロポリスに記念の像が建てられた。
競争相手の妬みを買い、晩年の経緯によって評判にも傷がついた。アエリアヌスは、ティモテオスは幸運な将軍と見なされ、成功は運命の女神のおかげで本人の功ではないと人々が言ったと記す。舞台で嘲られ、画家は眠る彼の頭上から女神が網で諸都市を引き寄せる姿を描いたという。一方イソクラテスは、熟練して慎重な将軍であり、寛大な勝者で、目立たない外交家でもあったと描いている。
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