伝記
マウソロスは、紀元前4世紀前半のカリアの支配者で、紀元前353年に没した。形式上はアケメネス朝ペルシア帝国の太守として服属していたが、事実上は独立した状態にあり、王あるいは君主の地位を享受していた。名前はカリア語に由来し、「大いに祝福された者」といった意味とされる。カリアのほか、リュキアやイオニアの一部、ドデカネス諸島も支配した。
マウソロスは、カリアの初代太守ヘカトムノスの長男である。弟にイドリエウスとピクソダロス、姉妹にアルテミシアとアダがいた。マウソロスはアルテミシアと、イドリエウスはアダと結婚した。ディオドロスの記述から計算すると、マウソロスが父の跡を継いだのは紀元前377年(377/6年)となる。ただし、その名が歴史の表舞台に初めて現れるのは紀元前362年で、このときは小アジアで多くの太守がペルシアに背いた「太守の大反乱」の中心人物の一人であった。もっとも、実際にはおもに宗主であるアルタクセルクセス2世の側に立っていたともいわれ、紀元前366年には、リュディアの太守アウトフラダテスとともに、王の求めでアドラミュッティオンの包囲を指揮した。クセノフォンによれば、スパルタ王アゲシラオス2世の説得で包囲をやめたといい、アゲシラオスはマウソロスの客友であった。マウソロスが主君に対して公然と戦った証拠はなく、紀元前362年のオロンテスの反乱をアウトフラダテスとともに助けたとも伝えられるが、具体的な行動の証拠はない。ダタメスやアリオバルザネスのような露骨な反逆者と違い、反乱が鎮められた紀元前362/1年以後も罰せられず、むしろ褒賞としてリュキアの統治を任されたとされる。
その後、マウソロスはイオニアに積極的に進出した。ミレトスでは、同市を裏切ろうとした市民を助けるためアイギュプトスという人物を送り、近くの都市ラトモスを計略で占領した。まずラトモス人を護衛兵として雇って目をかけ、油断させた。そのうえでエフェソスのヘロピュトスが不穏な動きをしているとして、ラトモスから300人の兵を受け取ってピュゲラへ軍を進めた。軍がラトモスの近くを通ると、全市民が行進を見物に外へ出てきた。その隙に、前夜から近くに潜んでいた別働隊が、もぬけの殻になった町に突入して、難なく占領したのである。さらに紀元前357年には、アテナイに服属していたキオス、ビュザンティオン、ロドスをそそのかして反乱(同盟市戦争)を起こさせ、キオスと同盟してこれを援助した。この結果、それらの都市はアテナイから独立し、マウソロスはロドスを属国とした。
紀元前353年、マウソロスは死んだ。死因は分かっていない。支配権はまず妻のアルテミシアが、のちにイドリエウスが継いだ。子供への言及がないことから、マウソロスには子がなかったようである。アルテミシアは、同じ父を持つ姉妹でありながら妻となった人であり、二人の婚姻は形だけのものだったと考えられている。ただ、太守と呼ばれたのはマウソロスだけだったが、アルテミシアも共同の君主として政治的な権限を持っていたことは明らかとされる。アルテミシアは夫のために壮麗な葬儀を催し、故人をたたえる追悼演説の大会を開いて、テオポンポスやテオデクテス、ナウクラテスらが参加した。さらにスコパス、ティモテオス、レオカレス、ブリュアクシスといったギリシアの名高い彫刻家を雇い入れ、マウソロス霊廟を建てた。世界の七不思議の一つに数えられるこの霊廟は、その名を今に伝えている。
同じ年に亡くなった人物
同じ地域に関係する人物
- プトレマイオス1世エピゴノイ (紀元前239)
- Mufide Ilhan (1996年没)
- イドリエウス (紀元前344年没)
- アルテミシア2世 (紀元前350年没)
- アダ (カリア) (紀元前326年没)