伝記
ブレンヌスは、紀元前三世紀にバルカン半島へ侵入したガリア人の指導者の一人である。デルフォイで死んだとされ、その没年は紀元前279年とも278年ともいわれる。ギリシア本土に攻め込み、一時はアポロン神域の豊かな宝庫を狙ってデルフォイにまで達したが、そこで大敗を喫した。戦いで重傷を負い、その地で自害したと伝えられる。一部の著述家は、ブレンヌスとアキコリオスを同一人物とみなし、前者は称号、後者が本名だと考えている。ブレンヌスはプラウシと呼ばれる、ほかに知られていない部族の出身とされる。この部族はガリアの人口増加を受けてパンノニアに定住し、さらなる征服を求めていたという。
紀元前280年ごろ、約8万5000人の大軍がパンノニアから南下し、三つの部隊に分かれてマケドニアやギリシア中部をめざした。軍はもともとカンバウレスが率いてトラキアまで進んで止まっていたが、紀元前279年に再び動き出すとき三隊に分かれた。ケレトリオスはトラキア人とトリバロイ人に、ボルギオスはマケドニア人とイリュリア人に向かい、ブレンヌスとアキコリオスの隊はパイオニア人に向かった。ボルギオスの隊はマケドニア王プトレマイオス・ケラウノスを討ったが、貴族ソステネスに撃退された。続いてブレンヌスの隊がソステネスを破り、国土を荒らした。遠征から戻ると、ブレンヌスは自分とアキコリオスの指揮によるギリシアへの総攻撃を促した。軍勢は歩兵15万2000、騎兵2万4400とされ、パウサニアスによれば、騎兵一人に二人の従者騎手が付くトリマルキシアという戦法のため、実際の騎兵は6万1200にのぼったという。
ギリシア側はアテナイの将軍カリッポスのもとテルモピュライに集結し、スペルケイオス川でガリア軍の渡河を阻もうとした。しかしブレンヌスは夜のうちに1万の兵を下流の浅い沼地から渡らせ、現地の住民に橋を架け直させて本隊を渡した。テルモピュライでは当初、装備に勝るギリシア軍に押し返された。そこでブレンヌスは別働隊4万の歩兵と800の騎兵をアイトリアへ送り、アイトリア人の部隊を郷里の防衛に戻らせようとした。この策は成功したが、戻ったアイトリア人の反撃でガリア軍は半数以上を失った。一方でブレンヌスは、脅されて峠道を教えた住民の案内により、霧に隠れて4万の兵で峠を越え、守っていたポキス人を散らした。ポキス人の急報でギリシア軍は包囲前に退却し、アテナイの艦隊が収容した。ブレンヌスはアキコリオスらの到着を待たずにデルフォイへ向かった。
デルフォイ攻撃について、パウサニアスもユスティヌスもガリア軍の敗北と撃退を伝える。激しい雷雨で陣形も号令も乱れ、続く夜は霜が降りた。朝にギリシア軍が両側から攻め、ブレンヌスは負傷してガリア軍は後退し、退けない負傷者を自ら殺した。その夜は陣中に恐慌が起こり、仲間割れの戦いまで生じた。アキコリオスらの本隊が合流しても全面撤退を強いられ、ブレンヌスは自害した。パウサニアスは水で割らない葡萄酒を飲んだとし(ギリシア人はそれを毒だと信じていた)、ユスティヌスは剣で自らを刺したとする。アイトリア人に追われた軍は、スペルケイオス川でテッサリア人とマリス人に待ち伏せされて壊滅した。
逃れたガリア人は、ビュザンティオン周辺のヘレスポントス沿岸にティリス王国を、アンキュラ周辺にガラティア王国を築いたとされる。また隣保同盟は、この勝利を記念して新たな競技祭を設けた。