HISTORICAL PERSON · 紀元前371年没

クレオンブロトス1世

アギス朝のスパルタ王。テバイ遠征を繰り返したが、最後のレウクトラの戦いでエパメイノンダス率いるボイオティア軍に敗れ戦死し、スパルタは覇権を失った。

生涯
紀元前371年没
死亡地
ギリシャ共和国(中央ギリシャ / レウクトラの戦い)
出生地
ギリシャ共和国(スパルタ)
出典
世界地図
ギリシャ共和国(中央ギリシャ)

伝記

クレオンブロトス1世は、アギス朝のスパルタ王である。在位は紀元前380年から紀元前371年まで。パウサニアスの子で、先代の王アゲシポリス1世の弟にあたり、のちに王となるアゲシポリス2世とクレオメネス2世の父でもある。若い頃のことはほとんど知られていない。父王パウサニアスがアテナイへの遠征の不手際を責められてスパルタから亡命したとき、兄アゲシポリス1世とクレオンブロトスはまだ子供であり、親戚のアリストデモスの後見を受けた。紀元前380年に兄が死ぬと、クレオンブロトスが王位を継いだ。

即位後の治世の中心は、台頭するテバイとの戦いだった。テバイ人がテバイに駐屯していたスパルタ軍を殺害したのを受け、クレオンブロトスはスパルタとペロポネソス同盟の軍を率いて遠征に出た。この遠征は紀元前379年とも前378年ともされ、冬のさなかの出兵だったという。軍はキタイロン山を通って進み、敵の守備隊150人を討ち、友好国のプラタイアへ向かった。さらにテスピアイを経てキュノスケファライに至り、10日ほど留まってからテスピアイへ戻った。そこへスポドリアスを、傭兵を雇うための軍資金と同盟軍の三分の一とともに残して帰国した。ただしこの遠征は実質的な成果に乏しく、示威にとどまったともいわれる。一時は軍の指揮権を奪われ、同僚王のアゲシラオス2世が軍の先頭に立ったが、成果が上がらなかったため、再びクレオンブロトスが指揮を任されたとされる。

紀元前376年には再びテバイへ向かったが、国境に近いキタイロンの峠をテバイ・アテナイ連合軍に押さえられ、早々に撤退を余儀なくされた。その後、フォキスの求めに応じて出兵し、フォキスに侵入していたテバイ勢を自国へ退かせた。この遠征の年代は史料の間で揺れており、紀元前374年、あるいは前372年とする説がある。こうした失敗の積み重ねが、のちの彼を追い込んでいく。同時代人からは、敵のテバイに肩入れしているのではないかと非難されたとされる。一方、近代の歴史家には、実際に親テバイだったとは考えない者もいる。

紀元前371年、和平の試みが不調に終わったのち、クレオンブロトスは再びボイオティアへの侵攻を命じられた。テバイの将エパメイノンダスはケピシス湖の近くで待ち構えたが、クレオンブロトスはフォキスのアンブロッソスへ進み、この敵をやり過ごした。アンブロッソスではカイレアス率いるテバイ軍を破り、クレウシスを占領して同地のテバイの三段櫂船12隻を奪い、続いてレウクトラに向かった。それまでの失敗を責められていたため、今度こそ決戦に持ち込む覚悟だったと伝えられる。

こうして起きたレウクトラの戦いで、クレオンブロトスはエパメイノンダス率いるボイオティア同盟軍と戦った。テバイ側の約7000人が、スパルタ側のおよそ1万の重装歩兵を破ったとされ、その中には400人のスパルタ市民も含まれていた。これは戦える年齢の市民のほぼ三分の一にあたる。彼は敵の左翼を迂回しようとして果たせず、勇敢に戦って討ち死にした。紀元前480年のテルモピュライの戦いで倒れたレオニダス1世に次ぎ、戦場で死んだ二人目のスパルタ王である。王の死と軍の全面的な壊滅によって、スパルタはギリシアの覇権を失い、その主導権はテバイへ移っていった。王位は子のアゲシポリス2世が継ぎ、のちにもう一人の子クレオメネス2世が継いだ。

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