HISTORICAL PERSON · 紀元前395年没

リュサンドロス (提督)

ペロポネソス戦争後期のスパルタの提督。アイゴスポタモイの海戦でアテナイ艦隊を撃滅し降伏に追い込んだが、コリントス戦争の戦いで敗死した。

生涯
紀元前395年没
死亡地
ギリシャ共和国(中央ギリシャ / Haliartos)
出生地
ギリシャ共和国(スパルタ)
出典
世界地図
ギリシャ共和国(中央ギリシャ)

伝記

リュサンドロスは、ペロポネソス戦争の後期に活躍したスパルタの将軍・提督である。紀元前454年ごろに生まれ、紀元前395年に没したとされる。紀元前405年のアイゴスポタモイの海戦でアテナイ艦隊を壊滅させ、戦争を終結に導いた。その後の約10年間、スパルタがギリシアに覇権を築くうえで中心的な役割を果たしたが、紀元前395年のハリアルトスの戦いで戦死した。彼が目指したのは、アテナイの帝国を倒し、スパルタの覇権でそれに代えることで、これは大半のスパルタ人と異なる構想だった。

リュサンドロスはアリストクレイトスの子で、王家ではないが、ヘラクレスの血を引くと称するヘラクレス家(ヘラクレイダイ)の一員だったようである。母は奴隷身分のヘイロタイだったと記す著作家もいる。プルタルコスによれば、貧しい家に育ち、従順で規範に従い、「男らしい気性」を示したという。若い頃のことはあまり分かっていないが、金銭や物品などの物質的な富にはこだわらず、名誉への欲望は強かった。スパルタの養育の習慣で、青年は少年の「鼓舞者」あるいは「愛する者」に割り当てられるが、リュサンドロスは、のちの王アゲシラオスの相手となった。紀元前408年に提督職に選ばれるまでの経歴は分かっていない。

提督となったリュサンドロスは、ペロポネソス半島南岸のギュテイオンから30隻の三段櫂船を率いて出航し、ロドスなどで船を集めてエペソスに至り、ここをエーゲ海でのペロポネソス同盟の主要な海軍基地にした。続いてペルシア王ダレイオスの若い息子キュロスが小アジアの総督として到着すると、サルディスの本営を訪れ、計算された敬意を示して強い印象を与え、親しい友情を結んだ。キュロスはスパルタの戦費を大規模に援助し、水夫の日当は3オボロスから4オボロスに引き上げられた。エペソスに戻ると、各地の有力な寡頭派を集め、政治結社(ヘタイレイア)を組織するよう促し、アテナイが敗れた暁にはそれぞれの都市で彼らを権力の座に就けると約束した。こうして彼個人に忠実な支持者の網ができた。

ノティオンにアルキビアデス率いるアテナイ艦隊が停泊したとき、リュサンドロスは戦うのを避け、高い給金でアテナイの水夫の脱走を誘った。やがて小さな勝利を収めたあと、スパルタの法に従って提督の任を離れ、後任はカッリクラティダスとなった。リュサンドロスは去る際にキュロスの寄付金をすべて返し、後任の戦争継続を妨げたという。カッリクラティダスがアルギヌサイで敗れ戦死すると、キュロスと寡頭派の結社はリュサンドロスの復帰を求めた。同じ人が提督を二度務めることはできなかったため、副官の形で復帰した。紀元前405年初めにはミレトスで、ディオニュソスの祭りの最中に民主派の有力者を欺いて殺害し、寡頭制に替えた。

そして紀元前405年、アイゴスポタモイの海戦で、敵を油断させたのち奇襲する作戦によりアテナイ艦隊を完膚なきまでに破り、アテナイの穀物輸送路を押さえた。アテナイは包囲され、翌紀元前404年に無条件降伏に追い込まれた。戦後は、クリティアスやテラメネスらを援助し、アテナイの三十人政権の樹立に協力した。しかし同年、トラシュブロスら民主派の武装蜂起でこの政権は倒れ、民主制に戻った。紀元前400年にスパルタ王アギス2世が死ぬと、意のままになる者を王位に就けようとして、その弟アゲシラオスを推し、即位に尽力した。紀元前395年、スパルタの覇権に異を唱える諸国との間でコリントス戦争が起こり、リュサンドロスも将軍として戦った。しかし戦争が始まったその年のハリアルトスの戦いでテバイに敗れ、戦死した。

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