伝記
劉禹錫は、772年に生まれ842年に没した中国唐代中期の詩人・政治家である。字は夢得。前漢の中山靖王劉勝の子孫を自称したが、洛陽の人で、実際には匈奴屠各種の末裔にあたる。祖先の劉亮は北魏の官僚で、孝文帝が494年に洛陽へ都を移したのに従い、漢化政策のもとで漢人となって劉姓を名乗った。以来、一族は洛陽を本拠とした。晩年に親交を深めた白居易からは「詩豪」と呼ばれた。
代々儒学者として名のある家に生まれたが、父は安禄山の乱を避けて洛陽を離れ、嘉興に移った。そのため劉禹錫は南方で生まれ育ち、若いころには会稽で、禅僧で詩人の霊澈と皎然に学び、後年の作品にも仏教的な感性が表れた。793年に進士に及第し、同年の合格者に柳宗元がいた。同じ年に博学宏詞科にも合格している。795年には太子の教育係に任じられ、将来を嘱望されたが、796年に父が急死して揚州に戻った。800年には学者官僚の杜佑の書記となり、軍の生活を間近に見た。802年に渭南の主簿、翌年には監察御史となり、すでに監察御史であった韓愈、のちに加わる柳宗元と親しくなった。
805年に徳宗が没して順宗が即位すると、王叔文と王伾が政治を任され、永貞の革新を始めた。劉禹錫は柳宗元とともに王叔文の党派に連なり、財政面を担当して、王叔文・王伾・柳宗元とあわせ「二王劉柳」と並び称されるほど重要な役割を果たした。しかし改革は急激で、武元衡ら多くの政敵をつくった。順宗は病弱で、宦官の圧力により在位8か月で退位させられ、憲宗が即位する。守旧派が力を盛り返し、王叔文は失脚して自殺を命じられ、劉禹錫は連州刺史に左遷され、途中で朗州司馬に降格された。同志の多くも各地の司馬に左遷され、八司馬事件と呼ばれる。朗州での約9年間、劉禹錫は文学に没頭し、楚の地の風俗に取材した詩をつくり、民衆のために祭祀用の歌詞もつくった。
815年にようやく長安へ召還されたが、玄都観で詠んだ桃の花の詩が政府の主流派を風刺する内容だったため怒りを買い、再び連州刺史へ逆戻りになった。播州刺史とされかけたが、母を気づかった柳宗元が代わりを申し出て、裴度の取りなしで連州に落ち着いた。821年に夔州刺史、のち和州刺史となる。夔州では土地の歌謡の竹枝をもとに多くの「竹枝詞」をつくったことで有名である。826年に洛陽へ召還され、828年には長安に戻って主客郎中となった。そこで再び玄都観を訪れて続編の詩を詠んだ。前回から14年を経て、桃の木はすべて消えていた。このときも宰相の裴度のおかげでどうにか左遷を免れたが、裴度が引退すると、蘇州刺史に出された。蘇州では治水の働きが高く評価され、韋応物・白居易とともに地元の人々から「三賢」とされ、のちに三賢堂に祀られた。その後も汝州や同州の刺史を務め、836年には洛陽で太子賓客の名目だけの職に就いた。狭量な性格ゆえに地位が安定しなかったとも評される。
晩年は白居易との親交が深まり、元稹の亡き後も詩を唱和して、その神妙さを讃えられた。最終的には検校礼部尚書・太子賓客として生涯を終えた。左遷の経験から、楽府体の寓言詩に風刺の色が濃い作品を残し、蚊を中央政界の佞臣に喩えて、冬が来れば蚊が絶えるように彼らも凋落すると詠んだ。また『天論』は柳宗元の『天説』に呼応する著作で、従来の天人相関説に異を唱え、天は万物を生成するだけであり、人は法によってそれを制御できると説いた。
同じ年に亡くなった人物
- ラン・ダルマ (842年没)
- Bishr the Barefoot (842年)
- テオフィロス (842年没)
- アルフォンソ2世 (アストゥリアス王) (842年没)
- 嵯峨天皇 (842年没)