伝記
アルフォンソ2世は、760年ごろにオビエドで生まれ、842年に没したアストゥリアス王である。在位は791年から842年に及び、通算で51年間とも52年間ともいわれる長い治世を送った。初代の王ペラーヨの曾孫にあたり、父はフルエーラ1世、母は王妃ムニアである。のちに「純潔王」と呼ばれ、また巡礼の先駆けとして「最初の巡礼者」とも称された。
幼くして父を失い、先王シロの妃であった叔母アドシンダの庇護を受けた。ガリシアのサモス修道院で育てられたとも伝えられる。シロ王の宮廷では王宮の統治と管理を任されていたとされる。シロが没すると、アドシンダと宮廷の有力貴族の支持を得て王に選ばれた。しかし叔父のマウレガートが強い反対派を組織して王位を奪い、アルフォンソは身の危険を避けてアラバの母方の親戚のもとへ逃れた。その後、ベルムード1世がブルビアの戦いに敗れて退位すると、アストゥリアスに戻り、791年9月に正式に即位した。
即位後は宮廷をオビエドに定め、教会や宮殿を数か所建てた。市街の外にはサントゥリャーノ教会が築かれ、サン・ティルソ教会の遺構も知られる。年代記は、アルフォンソがオビエドの教会も宮殿もすべてトレドの様式にならって復興したと記している。対外関係では、フランク王国のカール大帝と交流があった。795年にはトゥールーズにいたルートヴィヒ敬虔王のもとへ同盟を求める使節を送り、796年から798年にもガラエキアの代表団がフランクの宮廷に派遣された。798年にはリスボンを襲い、その戦利品の一部として鎧、ラバ、捕虜を各7を贈ったという。イスラム勢力との戦いでは、794年にルトスで、825年にナロンとアンセオで勝利したとされ、これによりガリシア、レオン、カスティーリャの政治的再編が進んだ。816年のオロン川の戦いは引き分けに終わったという。オビエドは794年と795年に略奪を受け、795年にはバビアスで敗れてもいる。さらに、リスボンを一時的に征服して統治し、無人となっていたポルトを再建したとされる。セビリャに至るまで遠征してイスラム側の手にあった奴隷を救い出し、北部高原の住民を移してガリシア、アストゥリアス、カンタブリアに土地を与え、人口を厚くすることで王国の防衛の土台にしたともいわれる。治世の途中には深刻な危機があった。801年から808年にかけて、貴族の一部に迫られてアブラーニャ修道院に退くことを余儀なくされたのである。貴族テウダーノの助力で王位に返り咲くと、王国の再編に取り組み、西ゴート王国の遺産と結びつくことで王権の強化を図った。
伝承では、アルフォンソの時代の814年ごろ、あるいは830年ごろに、使徒サンティアゴの墓がコンポステーラで発見されたとされる。この地は後に、キリスト教世界でも屈指の巡礼地となった。王は最初の巡礼者とみなされ、オビエドから出発する原初の道を開いたとも後世に語られるようになった。女性との関係が知られなかったことから、「純潔王」の異名がついたとされる。一部の歴史家は、フランス王家の出であるベルタを妃としたと述べている。のちには「サンティアゴへ行ってサン・サルバドルへ行かぬ者は、召使いを訪ねて主人を訪ねぬ者」という言い回しも有名になり、オビエドの大聖堂と王の役割の大きさを物語っている。巡礼路は王国の存続に重要だったとされる。
842年に没し、年代記は、質素で汚れなく、敬虔かつ見事に王国を治めたと称えた。遺体はオビエド大聖堂の王室霊廟に葬られた。死後には、親族とされるネポシアーノが王位を争い、のちのラミロ1世と対立している。
同じ年に亡くなった人物
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- 嵯峨天皇 (842年没)
- 劉禹錫 (842年没)
- ラン・ダルマ (842年没)
- Bishr the Barefoot (842年)
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