HISTORICAL PERSON · 842年没

嵯峨天皇

第52代天皇(在位809〜823年)。薬子の変の後に蔵人所を置き、検非違使も設置し、弘仁格を発布した。空海に東寺を賜り、自らも漢詩や書に優れて三筆に数えられ、移った嵯峨院の庭には大沢池が造られた。

生涯
842年没
死亡地
日本(京都府 / 大覚寺)
出生地
—
出典
世界地図
日本(京都府)

伝記

嵯峨天皇は、786年に生まれ、842年に没した日本の第52代天皇である。在位は809年から823年。諱は神野といい、桓武天皇の皇子で、母は皇后の藤原乙牟漏、同母兄に平城天皇がいる。異母弟には淳和天皇らがおり、皇后は橘嘉智子(檀林皇后)である。嵯峨源氏の祖にあたる。

790年、数え年5歳で生母を亡くした。791年に乳母の出身地である神野郡にちなんで賀美能(神野)親王と名づけられ、799年に元服した。聡明で読書を好み、君主の器量を備えて父の桓武天皇にも愛されたという。803年に三品中務卿となり、806年5月に弾正尹となったが、同月のうちに兄の平城天皇の即位にともなって皇太弟に立てられた。平城にはすでに高岳・阿保の両親王がいたため、この立太子には桓武の意向が働いたともいわれる。809年4月、平城の譲位を受けて即位し、甥の高岳親王を皇太子とした。

810年、平城上皇が復位を試みる薬子の変が起こった。高岳親王は廃され、異母弟の大伴親王(のちの淳和天皇)が皇太弟に立てられたが、これが後の承和の変の遠因になった。この変をうけて、京内の治安維持や裁判を担う検非違使が置かれ、女官による混乱を避けるため、男性官人が天皇と連携する蔵人所も設けられた。巨勢野足と藤原冬嗣が蔵人頭に任じられている。以後は約40年にわたって平穏な治世が続き、宮廷文化が栄えた。右大臣となった藤原園人らの官僚に政務を任せ、詩宴をさかんに開くなど文治に専念し、818年には平安京の十二門を唐風の名に改め、宮中の儀式も唐制にあらためた。同年に弘仁格が発布された。このころは農業生産が極度に不振で財政難が深刻だったため、墾田永年私財法の改正による大土地所有の制限緩和や、公営田・勅旨田の設置などの対策がとられた。815年には近江国への行幸の途中、梵釈寺で唐から帰国した僧の永忠が点てた茶を飲んだとされる。822年には最澄の悲願であった大乗戒壇の設立を認め、823年には空海に東寺を賜った。

823年、淳和天皇に譲位して太上天皇となり、実子の正良親王(のちの仁明天皇)を皇太子とした。腹心の藤原冬嗣は、上皇がもう一人増える財政負担を理由に反対したが、譲位は実行された。嵯峨は太上天皇号をいったん辞し、新帝の淳和があらためて授ける形をとったため、太上天皇は国政に関与せず、天皇が唯一の君主となる先例が生まれた。これは、譲位後も天皇と同等の権能を持った平城太上天皇が、平城京への遷都を命じて起こした薬子の変を踏まえた配慮であった。833年に淳和の譲位で仁明が即位すると、嵯峨は洛外の離宮であった嵯峨院(のちの大覚寺)に御所を新造し、太皇太后嘉智子とともに移り住んだ。庭には洞庭湖を模した人工池の大沢池が造られた。

842年に崩御した。宝算57。その直後に承和の変が起こったことは、嵯峨の存命が平和を支えていたことをうかがわせる。国葬を自ら拒み、中国の典籍を引いた遺詔を残して、それまでの天皇とは異なる薄葬を望んだ。皇子皇女が多かったため、財政の圧迫を避けて多くに姓を与えて臣籍降下させ、源氏が成立した。嵯峨天皇の子で源姓を賜った者とその子孫を嵯峨源氏といい、河原左大臣として知られる源融もその一人である。書の作品としては、延暦寺に伝わる「光定戒牒」が知られる。漢詩と書にすぐれ、空海・橘逸勢とともに三筆の一人に数えられる。嵯峨御流という華道の開祖とも伝えられる。

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